※この文章は、「楷書体について(その1)」の続きです。
康熙字典体を字体の規準とすることの問題は、次の点にあります。すなわち、楷書が本質的に「手書き」の字体であり、手で書くことに最適化されているのに対し、康熙字典体は、本質的に(楷書ではなく隷書の間接的な影響のもとで成立した)「活字体」です。康熙字典体というのは、印刷されるための字体であり、これが手書きされることは想定されていなかったのです。康熙字典体を手書きの字体の規準とするとは、活字体を手でなぞることを意味するのです1 。
そして、手書きには不向きな康熙字典体が手書きの字体の規準として採用された結果、楷書本来の筆順まで不自然に変更されることになった、と江守氏は考えます。上記の『解説字体辞典』において、また、他の著作においても、江守氏が筆順の問題に繰り返し言及するのはそのためです。
実際、康熙字典体誕生以前の時代における楷書体による書は、私たちに、むしろ現在に近いもの、親しみやすいものを感じさせます。たとえば、現代の私たちの手もとには、8世紀前半に聖武天皇が書写した「賢愚経」が遺されています。一般に「大聖武」などと呼ばれ、わが国の楷書を代表する筆蹟に数えられているこの巻物の一部を眺めるだけで、聖武天皇が「旧字」を手書きしてはいないことがただちにわかります。
たとえば、聖武天皇が使う「悪」は現在と同じ字体であり、「惡」は用いられません。また、「来」の形も現在と同じです。「來」は使われていません。「悪」は楷書体であり、決して「惡」(康熙字典体)の略字ではなく、「来」もまた、「來」(康熙字典体)の略字ではなく、それ自体が楷書体だからです。
「國」「獨」などに略字が用いられていない点を除けば、「大聖武」の字体は、私のような素人の目には、1300年も前に記されたとは思えないほど今日的に映ります。これは、康熙字典体の影響を免れた純粋な楷書体の姿をとどめる筆蹟だからであるに違いありません2 。
- 「社」の偏は、楷書体では古代から「ネ」ですが、標準的な隷書体および康熙字典体では「示」です。 [↩]
- なお、「醜」の旁の1画目の点の省略や「宮」の2つの「口」のあいだの「ノ」の省略は、楷書体の字体の許容範囲であり、むしろ、唐代では省略されることの方が多かったようです。 [↩]