Home やや知的なこと 無形の〈貸し〉と〈借り〉について(後篇)

無形の〈貸し〉と〈借り〉について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「無形の〈貸し〉と〈借り〉について(前篇)」の続きです。

 〈貸し〉というのは、暗黙の心理的な圧迫であることによって、つまり、これを「客観的」に見積もらないことによって〈貸し〉であり続けることができるものです。私の支出や犠牲ではなく、これについて相手が抱えることになる計測不可能な「負い目」(debt) の方が〈借り〉(debt) の本質であると言うこともできます。

 そして、無形の〈貸し〉と〈借り〉がこのような性質を具えているかぎり、〈貸し〉と〈借り〉の精算は、私と相手との関係に依存します。(無形の〈貸し〉と〈借り〉は、敵対的な関係のもとでも成り立ちます。)私が軽く見られているのであれば、自分の〈貸し〉についての私の評価は過大となり、その〈借り〉をめぐる相手の評価は過小となりがちです。〈借り〉があるという自覚が相手にまったくない場合すら少なくありません。相手に対する私の態度が脅迫的であるなら、それぞれの評価は反転するでしょう。〈貸し〉と〈借り〉が無形のものであるかぎり、その精算が不適切なものとなることは避けられません。私が誰かに恩を売ること、つまり〈貸し〉を作ることを好まない理由です。

 とはいえ、ここにはさらに重大な問題が横たわっています。すなわち、私が誰かの便宜〈のために〉何かを行うとは、私の何かを〈犠牲〉にすることであり、私のふるまいを——実体化され評価となった——1つのブツとして扱うことに他なりません。これは、私が自分自身をブツとして扱うことであり、少し極端かも知れませんが、一種の自己疎外であると私は考えています。

 私は、私が誰かに協力したり、自分のリソースを誰かに提供したりするのは、私のふるまいが相手とのコミュニケーションの一部として意味を持つ場合だけと決めています。〈貸し〉を作り、将来の〈返済〉を期待しないかぎり行動に移すことができないようなことは、頼まれても断るよう心がけています。(当然、私は、私に敵対する者の便宜のためには決して行動しません。)

 しかし、おそらく、この問題に関して理想的であるのは、それと気づかぬうちに誰かを助けたり、誰かに協力したりすることであるに違いありません。デリダが指摘するとおり、純粋な歓待とは、歓待の自覚を欠いたまま与えられる歓待でなければなりません。同じように、本来の意味における恩が可能であるとするなら、それは、依頼された事実もなく、依頼を受けた自覚もないまま行われる協力、援助、親切、つまり〈相手のため〉を考えることなく〈相手のため〉にふるまうときに生まれるはずである、私はこのように考えています。

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