Home やや知的なこと 無形の〈貸し〉と〈借り〉について(前篇)

無形の〈貸し〉と〈借り〉について(前篇)

by 清水真木

 普段の生活において、私は、誰かに恩を売ることを好みません。少なくとも、恩を売って〈貸し〉を作ることを期待して誰かの意向に沿うようにふるまったり、協力したりすることは、可能なかぎり避けるよう心がけています。

 私が誰かに対し「恩を売るつもりで恩を売る」とき、私は相手に〈貸し〉を作ったという自覚を持ちます。この場合の〈貸し〉とは、相手の望みを実現するために私が——大抵の場合は私自身の都合を犠牲にして——支出した時間、体力、費用などの便宜の全体を意味します。

 私が相手に〈貸し〉を作るなら、当然、相手の方には〈借り〉が生まれるはずです。そして、相手には、この〈借り〉を、今度は私が望むときに、これを〈借り〉と等価の協力によって〈返す〉責務を負うことにならなければなりません。これが〈貸し〉と〈借り〉という表現の由来だからです。相手に売った恩が〈貸し〉と言われるときにはつねに、私と相手のあいだの関係は、商取引と重ね合わせ可能な「便宜の交換」として表象されていることになります。

 けれども、このような無形の〈貸し〉と〈借り〉の交換は失敗を避けられません。というのも、通常の商取引とは異なり、この〈貸し〉と〈借り〉が〈貸し〉と〈借り〉であるためには、無形であるばかりではなく、暗黙のものであることが必要だからです。

 両者が等価であることの明示的な確認が欠けており、〈貸し〉がある私の側がその価値を好きなように大きく見積もることが許されている点、場合によっては、〈貸し〉の返済の名のもとで無際限の隷属すら要求することが可能である点に、無形の〈貸し〉と〈借り〉の本質があるのです。無形の〈貸し〉と〈借り〉が「来年はあなたが私のためにXすることを条件に、今年は私があなたのためにYする」というような形で記述され、この記述にもとづき、「今年のY」と「来年のX」が等価であることを私と相手が確認する、などということはありません。(後篇に続く)

関連する投稿

コメントをお願いします。