※この文章は、「『すべての人間は死すべきものである』(omnes homines mortales sunt) という判断について(前篇)」の続きです。
ところで、「すべての人間は死すべきものである」は真であるのか。しかし、ここには、ある微妙な問題が横たわっているように思われます。
「すべての人間は死すべきものである」が真であることは、誰もが認めざるをえないように見えます。実際、私たちは、普段の生活において、特に検証することなく、これを真と見なし、これを前提として行動しています。「すべての人間が死すべきものである」は、人類の歴史においてもっとも古くから認められてきた真理であると言うことができます。哲学者の多くもまた、これを動かしがたい真理として受け止めてきました。これが真理として万人に受け容れられてこなかったなら、世界の宗教の大半は揮発してしまうでしょう。
とはいえ、純粋に形式的に考えるなら、「すべての人間は死すべきものである」は、証明済みの真理ではありません。むしろ、これは、単なる経験的知識にすぎません。
たとえばスピノザは、『知性改善論』において、人間の死の事実を「漠然とした経験によって」(per experientiam vagam) 獲得される知識と見なし、推理にもとづく知識や事柄の本質から演繹された真理から区別しています。
実際、「すべての人間は死すべきものである」を証明することは不可能であるように思われます。確実に真であると言えるのは、「大抵の場合、人間は死ぬ」「人間は、時間の経過とともにその生存が不確実になって行く」など、実に頼りない認識にすぎません。なぜなら、私たちにわかっているのは、「これまでのところ、ある程度以上の期間(数十年)を生きた者はすべて死を経験し、死を経験していない者——つまり死なない人間——は、確認しうるかぎり一人もいない」ことだけだからです。ストア主義者が何を主張しようとも、人生がいずれは終わること、つまり、人生が有限であることは、有効な経験則以上のものではありません。また、今後、死なない人間——現に生きている私たちなら誰にでも、その最初の1人になる可能性があります——なるものの存在が確認されるかも知れません。
もちろん、たとえば、細胞の老化の必然性や、世代交代の必要に言及し、「死なない人間」が生物学的に不可能であることを立証することはできます。しかし、これは、「すべての人間が現に死ぬ」ことの証明にすぎません。また、たとえば「さまよえるユダヤ人」のような「死ねない人間」を想定し、死ねないことの不幸にもとづいて人間における死の必然性を証明することもできません。
たしかに、死は、人間にとって非常に重要な「生命現象」です。死の先取りが価値ある人生を可能にすることもまた事実です。永遠に生きることを強いられるのは、考えうるかぎり最大の不幸の1つでしょう。それでも、完全に形式的に考えるなら、「すべての人間は死ぬべきものである」は、大抵の場合真であるだけであり、つねに真であるとは言えません。「すべての人間は死すべきものである」という認識は有用な仮説であり、これが真理として通用してきたのは、その効用のおかげなのです。