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預言者的な身振りについて

by 清水真木

21世紀になってから、社会全体を巻き込むような自然災害や事故や事件が発生するたびに、「今こそ転換期である」「時代の危機だ」「資本主義は終わった」「社会のあり方を正すべきときだ」などと口々に叫ぶ大量の「知識人」が目につくようになりました。

私が記憶するかぎり、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件のころにはまだ、このような現象は認められませんでした。このような人々が登場するきっかけは、2001年9月の同時多発テロであったように思われます。

そして、これ以来、2008年のリーマン・ショック、2011年の東日本大震災、そして、2015年の安保法制の審議など、マスメディアが大々的に取り上げるような出来事が起こるたびに、多種多様な「知識人」が、誰から求められたわけでもないのに——ときには徒党を組んで——国民のもとに大挙して押しかけ、書物、論文、演説、それどころか、デモや署名活動まで用いて、彼ら/彼女らが「正論」と呼ぶものを押しつけるようになりました。

たしかに、これらの発言の背景となる考え方は、人により区々です。(知的公衆に向かって声高に語りかけるのがふさわしいテーマであるのかは疑わしいとしても、)それなりにまっとうな歴史的パースペクティヴのもとで試みられた少数の批評から、「『資本主義はもう終わりだ』論」と総称することができるような革命理論もどきまで、これらの言説は、幅の広いスペクトラムを形作ります。「世直し論の見本市」として眺めるかぎりでは、これは大変に興味深い現象であるに違いありません。

ただ、表面的な主張が多様であるにもかかわらず、これらの「知識人」はすべて、ある1つの点において一致しています。すなわち、彼ら/彼女らは、旧約聖書に登場する預言者たちに似た診断と警告の身振りを共通の特徴とするのです。

重大な出来事のたびに危機感を身にまとって姿を現す彼ら/彼女らは、神の言葉を伝える預言者と同じように、みずからの正しさを確信しており、自分が何か勘違いに陥っているかも知れないという人間的な疑念とは無縁であるように見えます。

また、残念ながら、彼ら/彼女らが掲げる「正論」は、問題の具体的な解決の役に立たないばかりではなく、生活に追われる庶民の実感からも距たっており、そのせいで、世論に大きな影響を与えることはありません。この点もまた、預言者と同じです。

「知識人」たちを駆り立てているのは、合理的な観察や反省ではなく、宗教的な使命感と焦燥感なのでしょう。この意味において、「危機」や「転換期」を叫ぶ「知識人」たちは、知識人であるというよりも、むしろ、一種の宗教家であると言うことができます。(彼ら/彼女らが夢想する「千年王国」の姿は、私には見当もつきませんが。)

幸いなことに、今のところはまだ、新型コロナウィルス感染症の流行については「危機」や「転換期」を叫ぶ小型の預言者たちの声は必ずしも大きくありません。(せいぜい、東京オリンピックの中止を求める署名活動くらいでした。)小型の預言者たちが徒党を組んで本格的に声を挙げ始める前に、新型コロナウィルス感染症が終息することを心から願っています。

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