世の中には、「自分に厳しい」人々がいます。このような人々は、周囲から高く評価されるのが普通です。もちろん、自分に厳しいことは、それ自体としては、決して悪いことではありません。
「自分に甘い」というのが悪い意味での「相田みつを」(?)的な現状への居直りを意味するものであるとするなら、その反対、つまり、「自分に厳しい」とは、たえざる成長への意欲を具えていることであり、これが「自分に甘い」よりも好ましいのは明らかでしょう。
とはいえ、誰にとっても、みずからに対し「適度に厳しい」ことは容易ではありません。
形式的に考えるなら、「自分に厳しい」人々が厳しい態度で臨む相手としての「自分」とは、厳しい態度をとる当の「自分」と同一ではありません。審く自分は、ある一点において審かれる自分とは明確に異なります。すなわち、審かれるのは過去の自分であり、審くのは現在の自分なのです。もう少し正確に表現するなら、「自分に厳しい」人々は、未来へ向って何かを投企する現在の自分を規準として過去の自分を審く人々であると言うことができます。
しかし、冷静に考えるなら、現在および未来の私のあり方については、これをある程度は意のままにすることが可能であるのに反し、過去の私の方は、もはや修正することができません。したがって、どれほど厳しく評価されても、過去の私には——同じ私であるとは言っても——これを更めることができないのです。つまり、過去の私が「やらかし」たことは、現在の私、審く側の私の目の前にいつまでも残ります。そして、この「やらかし」がその後の人生において決定的に重要であり、現在および未来の努力によって克服することができないかぎり、「自分に厳しい」人々は、これを繰り返し思い出して後悔しなければなりません。「自分に厳しい」人々にとり、「適度に厳しい」ことは困難です。大抵の場合、「自分に厳しい」とは、「自分に厳しすぎる」ことを意味します。
また、上に述べたことから、少なくとも次の2つのことが明らかになります。(後篇に続く)