哲学に何らかの関心を持つ人々は、「哲学好き」と「哲学嫌い」の2種類に大きく分かたれます。そして、両者は、表面的には鋭く対立します。しかし、哲学に対する態度には関係なく、世の中には、哲学に関するある勘違いが流通し、かつ、「哲学好き」と「哲学嫌い」の少なくはない部分がこの勘違いを暗黙のうちに共有しているように思われます。すなわち、一般に「学問」と呼ばれる知的活動と同じように、哲学もまた、現実を「説明」する試みであると考えられているのです。
哲学が「説明」であるとは、少し厳密に言うなら、現実を独特の規範的な態度で抽象的に写し取る作業に哲学の本質を求めることを意味します。また、この独特の規範的な態度こそ、哲学を他の学問から区別する標識であると普通には考えられているに違いありません。
しかし、これは、リチャード・ローティが「自然の鏡」(mirror of nature)と名づけて斥けた哲学観に当たります。また、私は、ローティとともに、この哲学観が現在ではもはや無効であると考えています。
哲学が「自然の鏡」であるという誤解、いや、「自然の鏡」を作ることが哲学の使命ですらあるという誤解は、哲学のアマチュアに受け容れられてきたばかりではなく、一部の「プロ」の哲学者のあいだでも共有されてきました。
この勘違いに囚われた哲学者の典型として私の心に最初に浮かぶのはショーペンハウアーです。ショーペンハウアーは、その高度な洗練と機知にもかかわらず、決して一流の哲学者とは見なされてきませんでした。それは、彼の生涯にわたる思索のすべてがこの勘違い——ショーペンハウアー自身の言葉を使うなら、哲学の使命が「世界の抽象的な模写」を作り上げることにあるという誤解——によって徹頭徹尾ミスリードされているからに他なりません。
天文学が宇宙の諸現象を説明し、経済学が経済の諸現象を説明するのと同じような意味において、哲学は何かを説明するわけではありません。そもそも、天文学や経済学における天体や経済に相当する「フィールド」が哲学にはありません。「『世界の総体』が哲学のフィールドである」などと言ってみたくなるかも知れませんが、残念ながら、これはナンセンスです。なぜなら、フィールドを獲得するためには、「全体」を見渡すことを諦めること、つまり、視点を定めることにより「部分」へと視野を制限することが必要となるからです。全体を眺める視点などというものはありえないのです。
さらに、決まったフィールドを持たない哲学には、「答え合わせ」の可能性もありません。つまり、哲学は、説明の正しさを証明するために訴えるべき外部の基準を持たないのです。説明の価値がその正しさに求められるべきであるとするなら、哲学的言説を何らかの説明として受け止めることは不可能となるばかりではなく、そもそも、哲学の名のもとに語られたことはすべてナンセンスになってしまうでしょう。