政治的な問題について自分の立場を説明するとき、「右でもなく左でもなく、まっすぐ真ん中」であり「中立」であり「普通」であるなどとうそぶく人々がいます。(このような言葉遣いは、どちらかと言うと「保守」を自称する人々によく認められます。)
彼ら/彼女らがどのようなつもりでこのような表現を使っているのか、必ずしも承知していませんが、私は、政治的な問題について意見を表明するときに「右でもなく左でもない」などと語る「普通」の人々を信用しないことにしています。
「右でもなく左でもない」とは、「偏っていない」ということです。しかし、「偏っていない」など、現実には不可能です。私たちは一人ひとり、少しずつ異なる視点から現実を眺めているからであり、このかぎりにおいて、少しずつ偏ることを避けられないからです。
また、政治に関しみずからが「偏っていない」と主張することは、現実の認識として誤りであるばかりではなく、理想においてもまた、大いに問題があると私は考えます。政治に関し「偏っていない」立場を標榜することは、どこかに唯一の「正解」なるものがあり、かつ、自分がこの正解をすでに把握しているという(不可解な)想定のもとで初めて意味を持つからです。
「右でもなく左でもなく、まっすぐ真ん中」「私は偏っていない」「普通である」などと公然と語ることができる者は、自分の偏りを自覚することができないか、あるいは、偏っていないふりをして他人を欺こうとしているかのいずれかであると考えるのが自然です。
誰が考えてもわかるように、政治的な問題に関し正解などありません。そもそも、誰もが否応なく偏っており、かつ、正解などどこにもないからこそ、民主主義のもとでは、社会全体の問題を解決するに当たりオープンな対話と合意形成が必要となるのです。
ツイッターでは、自己紹介欄に「普通の人」などと記されたアカウントを見かけることが少なくありません。そして、私が知るかぎりでは例外なく、このようなアカウントから投稿されたツイートの内容は、「右」方向にいちじるしく「偏って」おり、場合によっては、各種の陰謀論にすら囚われているように見えます。
この意味において、「普通の人」という自称は、単純に事実に反するばかりではありません。「普通」が「異論を受け付けるつもりがない」という表現の短縮形であることを考慮するなら、この意味において傲慢でもあり、また、民主主義にとり危険でもあります。