私たちは誰でも、習慣として日々の生活に組み込まれていた行動を何らかの事情によって急にやめる経験を持っています。
たとえば、私たちは、飲酒や喫煙の習慣を、自発的に、あるいは他から強いられて、この習慣を日常生活から除去することになるかも知れません。飲酒や喫煙は、控えることが好ましいと一般に考えられているものからです。
とはいえ、大抵の場合、飲酒や喫煙のような習慣的な行動には依存性があります。そのため、これを急に中断すると、私たちは、何らかの「離脱症状」を経験します。そして、この離脱症状のうちある部分は、身体が惹き起こす純粋に生理的な反応として理解することができるものです。手が震えたり、頭痛に襲われたりするのはその典型です。
しかし、離脱症状には、生理的な苦痛の他に、私たちの心に産み出されるある気分が属しています。常習的な行動を生活から除去するとき、私たちの心には、「手持ち無沙汰」という気分が産み出され、私たちは、これに否応なく囚われることになります。離脱症状が惹き起こす苦痛の多くは、純粋に生理的なものであるというよりも、この「手持ち無沙汰」という状態あるいは同じ名を持つ気分に由来するものであると言うことができます。特に、スマホ依存やゲーム依存に代表される「行動嗜癖」が惹き起こす離脱症状のうち、当人が自覚することができるのは、「手持ち無沙汰」という気分あるいは状態だけであるに違いありません。
この場合の「手持ち無沙汰」とは、習慣的な行動を急にやめることで発生する生活の空白、および、この空白によって機械的な動作——たとえば「スマホを手にとる」というような——が阻碍され、「次になすべき動作を何も思いつかない」「何で時間を埋めればよいのかわからない」という(途方に暮れた)感じに他なりません。
とはいえ、手持ち無沙汰は、何か生産的なアイディアを獲得する絶好の機会となりうるものでもあります。というのも、私たちは、習慣化されてきたことをやめると、当初は、生活の中に発生した空白によって機械的な動作を繰り返し阻碍され、次に何をすべきかを考えさせられるからです。
たしかに、考えるのを面倒と感じ、単純に何もしないことによってこの状態を回避しようとすることもまた、決して少なくありません。ネットへ接続することができない環境に放り込まれ、スマホが急に使えなくなったとき、何もせずただ横たわってしまう人は、間違いなくスマホ依存であるに違いありません。
とはいえ、習慣が除去されることによって発生した空白は、いずれにしても何かによって埋められなければなりません。実際、私たちは、空いた時間を何によって埋めたらよいかを思案するようになります。時間を埋めるために何をするか、この決して楽しくはない思案を私たちに求め、何か新しいことへと私たちを促す点に手持ち無沙汰の生産性が認められます。私は、何もない空白の状態から、「スマホをいじれないなら、とりあえず部屋の片づけでもするか」「タバコを吸えないなら、気を紛らわせるためにバイオリンでも習うか」などと思い立ち、そして、これを行動に移すことになります。(何かを行動に移さなければ空白が埋められませんから、思案は、実行できるものが見つかるまで続きます。)
これが手持ち無沙汰の生産性です。