※この文章は、「いわゆる『模擬天守』について(前篇)」の続きです。
中学生のころ(1980年代初め)、日本の城郭の歴史に関する本を集めてしきりに読んでいた、というよりも、眺めていました。日本の城について調べ始めたきっかけは、司馬遼太郎の小説でした。
そのころの私は、司馬遼太郎が好きで、その有名な小説を手当たり次第に読んでいました。(最初に読んだのは『夏草の賦』です。)私の署名が入った司馬遼太郎の文庫本が書庫に大量にあるところを見ると、司馬遼太郎の長編小説はほぼすべて読んでいるはずです。ただ、残念ながら、内容については、今は何も憶えていません。憶えているのは、「司馬遼太郎なんか読んでないでちゃんと勉強しろ」と母から繰り返し言われたことくらいです。
当時はまだ、司馬遼太郎の作品は、普通には「パッとしない中年の男性サラリーマンが好んで読む時代小説」と受け止められていました。そのせいで、私が「司馬遼太郎を読んでいる」と言うと、「オヤジみたいだ」と周囲からよくからかわれました。
ところで、日本の城郭に関する本には、当然、天守閣の写真がたくさん掲載されています。そして、私は、このような本を読むことで、「復興天守」および「模擬天守」という言葉を知りました。
現在では、「模擬天守」がずいぶん増えているようです。上記の文章で私が言及した「城」もまた「模擬天守」です。その地方中小都市は、戦国時代に城下町として作られたところですが、すでに江戸時代初期には城は取り壊されていました。
しかし、私が覚えているかぎりでは、天守がもともとなかった——というか、江戸時代にはすでに城そのものがなかった——城跡に「再建」された天守閣は、1980年代初めにはまだごくわずかでした。
このような古くからある模擬天守のうち、私が強い違和感とともに今でも記憶しているのは「千葉城」です。「千葉城」の3文字とその天守の写真を目にした途端、「城下町でもない千葉にどうして城があるのだ?」「この天守はどのような史実に支えられているのだ?」「そももそもいつ、そして、なぜ建てられたのだ?」などの疑問が澎湃として心の中に湧き出しました。
なお、私が当時手にとった本において「模擬天守」の代表として写真つきで紹介されていたのは、鳥取県の「羽衣石城」(うえしじょう)です。現在では、新しい模擬天守に建て替えられているようですが、1980年代までの羽衣石城の模擬天守は、写真のかぎりでは、まともな建築物というよりも、ブリキで城をかたどった仮設建築物、いわば「城郭風のバラック」でした。羽衣石城のこの映像の印象は強烈であり、私はしばらくのあいだ、「模擬天守」が仮設の天守閣のことであると勘違いしていました。今でも、「模擬天守」という言葉を目にするたびに、私は古い羽衣石城を思い出します。