今日、2019年4月に起こった東池袋の自動車暴走事故に関する判決が出ました。(この文章は、9月2日に書いています。)
私たちの多くは、当初から現在まで、この事件(あるいは事故)について、他の事件や事故では経験したことのない強いいらだちを覚えてきました。しかし、何がここまで私たちをいらだたせるのか、いたましい事故であるばかりではなく、腹立たしい事故でもあるのはなぜなのか、この点について、説得力のある説明は与えられてはこなかったように思われます。
そして、適当な説明が与えられないというこの事実は、池袋暴走事故をさらに不快なものにしてきたように思われます。
それでも、多くの人々が示す烈しいいらだちには、ある明確な理由があると私は考えます。(決して被告人が「上級国民」だからではありません。「上級国民」などわが国にはいません。)すなわち、多くの人々は、今回の事故およびその後の成り行きに、現代の社会の秩序そのものが根本から腐蝕して行く予兆を聴き取ったに違いありません。そして、社会の秩序の腐蝕の原因として私たちの視界に姿を現したものこそ、「心身の衰弱」に他なりません。
世の中には、数えきれないほどの不正義が認められます。しかし、このような不正義がたとえば既得権益やイデオロギーにかかわるものであるなら、批判したり、異議を唱えたり、抗議活動を組織したり、法律や制度を改正してこれを封じ込めたりすることが可能です。つまり、このような不正義には責任を負う主体というものが必ずあり、責任を追及して最終的に「かたをつける」ことができるのです。そして、このような責任を負うことができる主体こそ、民主主義や法の支配などを基盤とする社会の秩序の前提であると言うことができます。
ところが、心身の衰弱が原因で起こる不正義、もう少し具体的に言うなら、心身が衰弱した老人によって惹き起こされる不正義は、一切の追及を免れてしまいます。第1に、心身の衰弱は、生理的、物理的な現象であり、それ自体の責任を老人に帰することはできないからであり、第2に、心身の衰弱により、社会の必須の構成要素としての「責任ある主体」の溶解と動物化が進行するからです。
心身の衰弱は、交渉も説得も懲罰も受けつけません。この意味において、心身の衰弱とは、民主主義を本質とする社会に敵対する暴君のようなものであり、このままでは、社会全体が老人的なものによって浸食され、心身の衰弱という、いかなる責任も負わせることのできない暴君に屈服してしまうことになるのではないか……、被告人が――法律上の正当な権利として――自分の無罪を主張すればするほど、言葉にならぬ焦りと恐怖と無力感を強く感じる人が増えて行ったのではないかと私は想像します。
責任を負う主体が溶解し、老人の物理的、生理的な事情が社会秩序に優先するとともに、本当の意味における人間的な領域、つまり、民主主義的な合意形成の領域もまた縮小することを余儀なくされます。そして、人間的な領域委の縮小ととともに、社会は、単なる調教と管理の空間へと姿を変えて行くことでしょう。
もちろん、フーコーの指摘を俟つまでもなく、近代における人間の生存は、たえず強化される監視と管理の中で形作られてきました。それでも、誰も責任をとることができない単なる物理的、生理的な事情によってその秩序が脅かされたことはありませんでした。これは、民主主義を本質とする社会にとり重大なリスク、しかも、人類の歴史において民主主義が初めて直面するリスクであると言うことができます。
「老人的なもの」の専制を抑止する手立てを見出さないかぎり、わが国もまた、中国のような権威主義的な監視社会へと変容することを避けられないようにも思われるのです。