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礼儀正しい丁寧な言葉遣いへの意志

by 清水真木

 私は、誰かと直に言葉を交わすときには、つねに丁寧な礼儀正しい言葉遣いを心がけています。もちろん、目の前にいる相手が私よりも年下でも、いわゆる「タメ口」を使うことは原則としてありません。また、不快な状況のもとでも、唸ったり怒鳴ったり乱暴な言葉を使って感情を表現したりすることをできるかぎり避け、語彙もトーンを変えずに話すよう努力しています。

 もちろん、誰かが私に向かって「タメ口」で話しかけてきても、私はこれには合わせません。(家族やよほど親しい友人などが相手なら話は別です。)

 私が口頭でのコミュニケーションにおける言葉遣いに気を使うのは、礼儀正しい丁寧な言葉遣いが相手とのほどよい距離を作り出し、コミュニケーションに最低限の品位を与えることを期待するからです。

 私との会話において、私が使う言葉遣いに合わせられない/合わせるつもりがないのなら、そもそも私に話しかけないでもらいたいと思っています。そのような礼儀知らずの相手とのコミュニケーションが楽しいものになるはずがないからです。(もちろん、先生筋や先輩筋はこのかぎりではありません。)

 「大学教授」などという一見えらそうな肩書きとともに世の中を渡っていると、自分の職務上の立場(=肩書き)に対する周囲の人々の尊重を、自分自身の人柄に対する愛や敬意から区別することができなくなる危険につねにさらされています。私の発言や行動が周囲の人々から尊重されたり許容されたりしているのは、私の肩書きのせいであるにすぎないのではないか、という可能性を忘れ、「俺はえらい」「俺には影響力がある」という勘違いに陥りがちなのです。実際、「大学教授」の肩書を持つ者の中には、この点について区別がつかなくなる人が少なくありません。(もちろん、「大学教授」が特殊なのではありません。これは、社会、特に「男社会」に広く認められる現象です。)

私の話に耳を傾け、私の意見を尊重してくれる人がいるとしても、それは、私が「大学教授」だから、あるいは、特定の役職に就いているからにすぎないかも知れない……、私は、「大学教授」という肩書を手に入れてから知り合いになった他人に向き合うときには、このような可能性を忘れないよう心がけています。私にとり、言葉遣いは、肩書きではなく私が愛されている――あるいは尊敬されている――という勘違いから身を護り、謙虚であり続けるための手段の1つなのです。

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