しばらく前、次のような記事を書きました。以下は、この記事への補足です。
「メンタリストのDaiGo」氏の発言がこれほど大きな騒ぎになったことの背景には、世間を支配する1つの深刻な誤解があるように思われます。すなわち、多くの人々は、「ホームレスや生活保護の受給者に共感し、これを愛することは万人にとって義務である(か、あるいは少なくとも留保なしの善である)」と勘違いしているように見えるのです。
私たちにとって何らかの義務があるとするなら、それは、「納税」という形で公的扶助の制度を支えることだけです。各人の内面は完全な自由の領域であり、特定の対象への「愛」や「関心」を他人に要求するなど、そもそも不可能なのです。
「生活保護」と総称される各種の公的扶助は、私たちが納める税金を原資とします。私が普段から納めている所得税もまた、その一部が生活保護に使われているはずです。
私は、税金のこのような使途について積極的な同意を与えたことは一度もありません。また、「公的扶助が税金の使い道としてすべてに優先するか」と問われれば、この問いに対し留保なくyesと答えることにはいくらかためらいを覚えます。
とはいえ、自分が納める所得税の一部が生活保護の原資になるからと言って、これを理由に納税を拒否することはありません。この意味において、「社会的弱者を積極的に支援する意欲も愛情もないし、関心も知識も時間も体力もないが、自分の所得税が公的扶助に使われることは拒絶しない」というのが現在の私の立場であることになります。
そもそも、現代における社会保障の仕組は、社会の大多数がこのような「生ぬるい無関心」の状態にあることを前提にしているはずです。つまり、国民に課せられた義務は、「ただ納税すること」であり、「社会的弱者を愛すること」や「よろんで納税すること」ではありません。
納税者一人ひとりが社会的弱者の支援に意義を認めるかどうかは、公的扶助の制度にとってはどうでもよいことです。社会的弱者の救済のためによろこんで納税しなければならないわけではなく、「公的扶助など税金をドブに捨てるのと同じことである」と確信しながら仕方なく納税するとしても、納税という点において違いはありません。「納税」という「行動」が法律によって強制可能であるのに対し、内面の方は、各人の完全な自由だからです。社会的弱者に対し興味も共感もなくても、「納税」という形で制度を支えさえすればよいのであり、どのような理由で制度を支えるかは一切問題になりません。
「メンタリストのDaiGo」氏は、相当な高額納税者でしょうから、所得税を納めた上で何を言おうと、それは氏に与えられた権利です。これは人権問題でもなければ、政府が介入するような問題でもないと私は理解しています。(もちろん、氏の発言を批判する権利は誰にでもありますし、批判にさらされる責務が氏にあることは確かです。)
むしろ、決められた額を黙って納税するだけでは十分ではなく、納税にあたり誰もが「社会的弱者を愛している」かのようなふりをしなければならないとしたら、あるいは、納税額にもとづいて社会的な弱者への愛情の度合いを測られ、愛情の競争を強いられるようなことになったら、(ずいぶん以前に私の著書に少し書いたことですが、)誰が考えてもすぐにわかるように、それは、非常に息苦しい社会であるように思われます。