以前、次のような文章を投稿しました。
以下は、その続きです。
私が抱える蔵書について、過去に、いずれかの図書館に一括して寄贈する可能性を検討したことがありますが、いくつかの理由によりこの途は早々に諦めました。
そもそも、図書館に少しでも詳しい人なら知っているように、現在の国内の図書館には、大学図書館でも、あるいは、公共図書館でも、個人の膨大な蔵書を受け入れる金銭的、空間的な余裕はありません。
私が寄贈の可能性を諦めた後の話になりますが、桑原武夫氏の遺族から蔵書の寄贈を受けた京都市が、利用が少ないという理由でこれを廃棄したことが報道されて問題になりました。
「京都」と「桑原武夫」という2つのキーワードは、強力な地縁を想起させます。外部の人間の目には、これ以上は望めない理想的な組み合わせであるように見えます。
実際、維持管理に膨大なコストが必要になることは誰が考えても明らかであるのに、それでも、京都市が桑原武夫氏の蔵書に税金を優先的に投入することを決めたのは、氏の蔵書に他には代えられない価値があると判断したからであるはずです。そうでなければ、遺族からの蔵書の寄贈を受けるはずがありません。
上の記事が伝えるような事故は、背景を含めて重く受け止められるべきであると私は考えています。
蔵書を大学や自治体に寄贈することは、本質的には、維持管理のコストを肩代わりしてもらうことを意味します。したがって、維持管理のコストを肩代わりするに値すると思われないもの、あるいは、それ自体として利益を生む可能性がないものは、(蔵書に限らず)寄贈を申し出ても拒否されるのが普通です。
(「カネと場所と人手が足りない」という理由で寄贈を図書館から断られるとすれば、それは、「資金や場所や労働力が絶対的に足りない」ということではなく「あなたの蔵書のために優先的に使えるカネやスペースはない」という意味です。)
桑原武夫氏の蔵書の場合、氏と深い縁のあるはずの京都市すら、その維持管理のコストを期限を設けることなく継続的に捻出することができませんでした。まして、祖父と特別な縁があるわけでもないいずれかの図書館がその蔵書を一括して引き受け、膨大なコストを長期間にわたって負担して整理し、維持管理し続けるなどありえないと考えるのが自然であるように私には思われました。