今日、次のような記事を読みました。
「メンタリストのDaiGo」氏が公開した動画内の発言が多くの人々の神経を逆なでし、その結果、「謝罪すべきである」「謝罪が足りない」などと激しく批判されているようです。
私自身、当初の発言の内容には同意しませんし、そもそも、謝罪するくらいなら、最初から何も言うべきではなかったとも考えています。
とはいえ、わが国では、憲法によって思想信条の自由が保障されています。また、氏は別に生活保護の受給者やホームレスに対し「死ね」などの暴言を吐いたわけでも威嚇したわけでもなく、ただ、(各種の記事の範囲では、)「自分には興味がなく共感もできない、優先的に支援する必要も認めない」という意味のことを、当たり障りのある表現を用いて述べたにすぎません。この点において、在日韓国人や朝鮮人に対するいわゆる「ヘイトスピーチ」とは明らかに性質を異にしています。
この発言が向けられた人々にとっては不快であるには違いなく、その点に気が回らなかった氏の「共感能力」には何らかの問題があるのかも知れません。
とはいえ、上記のようなことを主張した人物の「人格」を批判すること、特に「病的」「病気」などという言葉を使って批判することは好ましくないように思われます。
たしかに、発言内容は、「事実に関する誤認を含むもの」であり、「現在の道徳的な水準との関係では容認しがたいもの」であり、このかぎりにおいて、「社会に悪い影響を与える可能性があるもの」ではあります。
しかし、世間は、この種の「反社会的」と受け取られる危険がある意見を公にしたすべての人物を「病的」と見なすのが最近の――とは言っても、遅くとも19世紀後半以来の――流行のようです。下記の記事は、そのような見方の典型的な表現であるように私には思われます。
この記事は、「病気」や「病的」という表現を慎重に避けていますが、それでも、ここで取り上げられているのは、普通あるいは理想とされる人格を規準として氏の「人格」を記述するものであり、氏の発言の内容の是非ではありません。この点について、この記事は、DaiGo氏の人格の欠陥を「診断」するものであると言うことができます。
誰かを心的な意味において「病んでいる」と宣告することができるのは、自分が「正常」であることを疑わない者だけです。また、自分を「正常」と規定し、相手を「病んでいる」と決めつけることは、相手とのあいだで合意形成や意思疎通の必要を認めないと言っているのと同じです。必要なのは「対話」ではなく「治療」と「教育」だ、というわけです。
しかし、自分(あるいは社会の多数派)の気に入らないことを主張する者に「病気」というレッテルを貼ることは、民主主義のもとでは許されないと私は考えています。なぜなら、民主主義というのは、意見を異にする者とのあいだでの合意形成の努力を前提するものだからです。
自分のことを「正常」と規定し、自分と意見を異にする他人を「病気」「異常」と決めつけた瞬間に、両者のあいだの意思疎通は不可能になり、正常と異常、健康と病気をめぐる際限のない闘争が生まれます。これは、宗教において「正統」と「異端」のあいだの闘争という形を与えられてきたものです。また、中国に代表される権威主義的な国家についても、事情は同じです。
しかし、現代の社会において何らかの道徳的な「向上」が認められるとするなら、少なくともその一部は、自分を無条件に「正常」と規定し、自分と異なる者を「異常」と見なす傾向を克服することによって成し遂げられてきたものであるに違いありません。たとえば障碍者やLGBTの社会的な地位の変化は、(当事者にとって十分とは言えないかも知れないとしても、)このような向上を反映するものであるはずです。
多数派の良識を逆なでするようなことを主張する人物に対する態度としてふさわしいのは、これを問題提起と受け止めて議論することであり、多数派の良識を逆なでした者を怒りにまかせて「病気」と決めつけることではないように思われるのです。