「何らかの行動を習慣化させるには、標的となる行動を反復させればよい」という意見があります。しかし、私はこれには与しません。当人がその行動に意義を認めないかぎり、どれほど長期間にわたって反復を強制されても、強制がなくなると同時に行動もなくなるからです。
当然、私は、「最初は意義がわからない行動でも、(強制によるとしても、)反復するうちにその意義が次第にわかるようになる」という希望的観測にも同意しません。標的となる行動にあらかじめ何らかの意義を認めている者か、あるいは少なくとも、標的となる行動の意義を信じ、反復の中でその意義を探し続ける者でないかぎり、単なる反復は、単なる反復にとどまり、決して習慣にはなりません。
かつて、私は、学生に大量の本を読ませて読書習慣を身につけさせようとしたことがあります。私が普段相手にしている学生は、本をほとんどまったく読みません。何年か前、大学生が本を読まないことが大学生協の調査により明らかになり、これが世間で話題になりましたが、私の目の前にいるのは、この調査の標本のような学生ばかりです。
しかし、誰が考えても明らかなように、「本を読まずに哲学する」など、「呼吸せずに生活する」のと同じ程度に不可能なことです。哲学の勉強以前に、本を自発的に手に取る習慣を身につけさせなければ、何も始まりません。
そこで、ある年、私は、演習に出席する2年生全員に対し、1年間、新書サイズの本を毎週1冊ずつ、夏休みや春休みの期間を含めて読ませることに決め、その都度1000文字程度の概要を提出するよう求めました。(読むべき本のうち、約半分は私が指定しましたが、残りは学生に自由に選ばせました。)私の指示をそのまま実行すれば、学生は1年間に52冊の新書を読むことになるはずであり、実際、すべての学生が52冊を読みました。(提出された概要を点検するのはとても大変でした。)
それでは、これにより、学生は読書の習慣を獲得したのか。答えはnoです。学生のうち、もともと読書の習慣を持っていた1名だけは53冊目に手を出しましたが、それ以外の学生はすべて、私が強制をやめた瞬間――つまり、読書が成績評価に反映されなくなった瞬間――に本を読むことをやめてしまいました。読書習慣を身につけさせるという目標との関係では、それまでの努力はすべて無駄だったことになります。実にむなしい気持ちになりました。
私の感覚では、新書52冊というのは、大学生の1年間の読書量として特に多いものではありません。(もちろん、21世紀前半の私立文系の2年生としては多い方だと思います。)それでも、52冊も読めば、その内容によって何らかの形で裨益されることを経験するでしょうし、読むスピードも、理解の幅も広がるはずです。しかし、結局、読書の面白さや意義をあらかじめわかっている者か、あるいは、読書に何らかの意義があると信じ、読書しながらその意義を探し続けた者だけが、大量の読書によって習慣を新たに身につけられるという当たり前の真実が確認できただけで、私の試みは見事に失敗しました。
その後、私は、学生に読書の習慣を身につけさせることを完全に諦めました。今では、授業中に参考文献を紹介することも原則としてやめています。
参考文献は、授業を足がかりに学生が主体的に勉強を続けるのに必要なものであり、次に読むのにふさわしい本を紹介することは、学生に対する最高のサービスの1つであると私は信じています。それにもかかわらず、私は、こうしたサービスを放棄しました。なぜなら、「読んで概要を提出しなければ減点する」とでも言わないかぎり、ほぼ誰も読まないことが確実である以上、参考文献を話題にしたり、参考文献のリストを作ったりするのは、時間と体力をドブに捨てるのと同じだからです。