Home やや知的なこと 「催眠子育て」に関する記事を読んで家族の存在意義を考えさせられる

「催眠子育て」に関する記事を読んで家族の存在意義を考えさせられる

by 清水真木

 しばらく前、次のような記事を読みました。

 この記事で取り上げられているリサ・マケンバーグという女性(プロの催眠療法士)は、自分の3人の子どもに催眠をかけているそうです。この記事では、これを「催眠子育て」(hypno-parenting) と呼んでいます。また、本人は、「催眠ママ」(the hypno-mom) を自称しています。

 実際、催眠をかけられた子どもは、部屋を散らかさなくなったり、宿題を適切に片づけることができるようになったりしたようです。なお、別の記事によれば、この女性は、ついでに自分の夫に催眠をかけ、夫の「しつけ」にも成功したそうです。

 たしかに、時間や体力を奪うような家庭内の面倒を催眠によって軽減させることは不可能ではないのでしょう。そして、このかぎりにおいて、催眠は、子どものしつけの効果的な手段となりうると言えないことはないのかも知れません。

 しかし、家庭生活を形作るさまざまな出来事は、賃労働と同じように処理されるのが望ましい「タスク」ではありませんし、家庭は「効率」や「生産性」を追求する場ではなく、むしろ、それ自体が目的であるはずです。(もっとも、わが国には、子育てに使う時間とカネを何の留保もなく「投資」と表現する女性の評論家がいますが。)

 また、(以下、あえてきれいごとを言いますが、)催眠によって達成したものが何であるとしても、これは、言葉の本来の意味における子育てや家庭生活ではなく、単に、家族のメンバーを好きなように管理し操っているだけであるように思われます。また、他人を他人として尊重しないという点において、これは言葉の普通の意味で「反道徳的」なふるまいであると私は考えます。

 そもそも、他人を他人として尊重するとは、相手を他の目的の手段としないこと、相手に対し同意なく影響を与えないことを意味します。だからこそ、たとえばGoogleやFacebookのように、他人の個人情報を無断で覗き見することでこれを操ろうとする企業に多くの人々はいかがわしさを感じるわけです。

 しかし、この女性の自分の家族に対するふるまいは、自分にとって好ましいと思われる状態を作り出すことを目的として、家族を、相手の明確な同意なしに操ることに他なりません。催眠をかけられた家族は、自分が主体的に行動している――「主体的に行動する」とはどういうことかという面倒な議論はここでは措きます――のか、催眠によって操られているだけであるのか、わからなくなってしまうはずです。(命令や脅迫によって部屋を掃除したり宿題を片づけたりするときには、それが主体的な行動ではないことを何よりも本人が自覚しています。)

 催眠によって育てられた子どもは、他人を他人として尊重することができず、さらに、家族とは何らかの状態(部屋が片づいている、など)を実現し維持する「ためにある」という勘違いに囚われたまま人生を送ることになるのではないか、このような懸念を私は持ちました。

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