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ミニマリストの敵としてのコレクションについて

by 清水真木

 私には、コレクションの趣味はありません。むしろ、大学に入学してからは、仕事に必要な本や資料の他は、何かを系統的に収集して身の周りに置くことはできるかぎり避けるようにしてきました。なぜなら、コレクションはシンプル・ライフの最大の敵だからです。

 1つひとつのモノがどれほど小さくても、また、どれほど無価値でも、たがいに似たものが1箇所に集められて「かたまり」を形成すると、この「かたまり」は、新しい存在理由をみずから獲得して周囲の空間を支配するようになります。この瞬間に、似たものの寄せ集めは、「コレクション」となって私たちの注意を惹くようになるのです。

 いったん「コレクション」となった物体群は、ここに属する1つひとつのモノの価値には関係なく、ともかくも「コレクションである」という理由により、処分されたり消尽されたりすることにかたくなに抵抗するようになります。

 たとえば、財布に入った1円玉は、買い物において使用されることに抵抗しません。(財布の中に1円しかない場合は、このかぎりではありません。)けれども、1955(昭和30)年以来のすべての年に製造された1円玉が1枚ずつ集められ、これらが大きなケースに丁寧に並べられるなら、1円玉のこの「かたまり」は「コレクション」となり、支払いに用いられる1円玉とは別の意義を獲得してしまいます。どれほどお金に困っていても、私たちは、コレクションを形作るかたまりを取り崩し、小銭として使うことをできるかぎり後回しにしようとするはずです。そして、コレクションは、自己主張しながらいつまでも私たちの視界に居座り、私たちの注意を奪い続けることになります。シンプル・ライフを目指すミニマリストにとり、コレクションはつねにもっとも目障りな邪魔者なのです((実際、私の部屋では、小学生のときに収集した約500枚の1円玉——手に入った1円玉をすべて貯金していました——が自己主張しており、どのようにしたら処分することができるか、途方に暮れています。))。

 1つなら簡単に捨てられるものでも、かたまりに なった途端に自己主張を始める点では、1円玉も、切手も、機械式腕時計も、喫茶店のコースターも、すべて同じです。

 シンプル・ライフを妨害するのがコレクションであり、似たモノがわざと、あるいは、自然に集められることでコレクションが生まれるのなら、シンプル・ライフを実現し維持するためには、何よりもまず、似たものの「かたまり」を作らないよう心がけること、そして、1つひとつのモノを他から切り離して評価することが大切であることになります。

 モノを片づけるとき、似たようなものを1箇所にまとめるなどもってのほかです。デカルトの指摘を俟つまでもなく、「困難は分割」されなければならないのです。

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