※この文章は、「善悪を損得に還元する習慣に抗して(その1)」の続きです。
とはいえ、誰が考えてもすぐにわかるように、功利性——つまり、最大多数の最大幸福——を追求するかぎり、大切なのは集団全体の幸福(=得=善)の総量だけですから、「全体の利益のために少数者が犠牲になるのは仕方がない」という主張を斥けることができません。「会社全体の生産性が向上するならパワハラもやむなし」「社会全体の安定のためには、生命を奪われる者がいても仕方がない」などという見方が正当化されることになってしまいます((これをもっとも極端な形で表現するのが、ジョン・ハリスの「生き残りのくじ」(survival lottery) と呼ばれる思考実験です。功利主義的に見るなら、多数の患者のために1人の健康な人間を犠牲にすることには何の問題もないことになります。))。
極端な場合、自分が帰属する社会集団の目指すものがそれ自体として社会に対して悪——必ずしも「損」とはかぎりません——をなすものであるとしても、その集団全体に対して「否」を言ってはならないことになってしまいます。
上に掲げた記事の筆者もまた、この点に問題を認め、自身の立場を
「自分の属するシステム自体が巨悪であることがあるのだから、もしその場合にはシステムに反抗せよ」
と要約しています。私もまた、そのとおりであると考えます。
ただ、「現実問題」——上の記事の筆者が大嫌いであると語っている言葉ですが——として、すべてを損得に還元する悪しき思考の習慣は、社会全体に広がり、身近な社会制度から国際社会における外交関係まで、いたるところで好ましくない結果を惹き起こしているように見えます。
以前、私は、次のような文章を書きました。
会社員のすべてが「自覚なき功利主義者」であるなどと主張するつもりはありません。それでも、現代の日本において、政治、社会、文化のあらゆる部分に市場主義、商業主義が浸透し、善悪が損得に還元されつつあるとするなら、それは、世の中が会社員だらけ——正確には「朝から晩まで長時間にわたって会社のことばかり考えている会社員だらけ」——となり、会社員的、あるいは、商売人的な思考の型が支配的になりつつあることと無関係ではないと私はひそかに考えています1 。
- 「キャンセル・カルチャー」のうちに、功利主義の支配に対する極端な反動を求めることは不可能ではないかも知れません。 [↩]