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「可能的なゴミ」と「捨てるコスト」について

by 清水真木

 私が所有するモノの中には、私にとっては不要なものが少なくありません。これは、いわば「ゴミ」であり、これらは、何らかの形で処分されるのが適当であることになります。

 もちろん、形あるものはすべて、未来におけるある時点においてみずからの役割を終えてゴミになる運命である以上、「可能的なゴミ」であると言うことができないわけではありません。私たちは、毎日の生活において、多くのモノを購います。大抵の場合、私たちが対価を支払って何かを手に入れるのは、これに何らかの実際的な役割を認めているからであるのが普通です。けれども、厳密に考えるなら、すべての商品は「可能的なゴミ」であり、私たちは、「可能的なゴミ」を買い、「可能的なゴミ」に囲まれて生活していることになるのです。

 厄介なことに、「可能的なゴミ」は、いつかその実用的な役割を失い、「現実的なゴミ」になります。もちろん、一部の食品のように、さしあたりゴミとして3次元空間を占有することなく消尽されるものがないわけではありません。しかし、大抵の場合、その役割を終えて「現実的なゴミ」となったモノは、いつまで待っても、私の視界から黙って姿を消すことはなく、役に立たない物体としてその存在を主張し続けます。つまり、「現実的なゴミ」を消去するためには、「捨てるコスト」がかかることになります。商品の本当の価格は、「手に入れるコスト」と「捨てるコスト」の総計——また、場合によっては、「維持するコスト」が必要となることもあります——であり、おそらく、ある商品が高いか安いかは、コストの総計を考慮することによって初めて判断することができるものなのです。

 もちろん、「捨てるコスト」が無視することができる程度のわずかなものであるなら、大きな問題はありません。たとえばビニール袋に入れて近所にあるゴミの集積所に運ぶ——ゴミの分別も「捨てるコスト」ではあります——だけでは片づかないものについては、多くの手間をかけなければなりません。

 大抵の場合、片づけを指南すると称する書物は、不要なものを処分する手段として、寄付、リサイクル、フリーマーケットへの出品などの手段を推奨しています。もちろん、「現実的なゴミ」に対し無際限の手間をかけることができるのなら、これを細かく分別し、何らかの形の再利用を可能にすることもできなくはないでしょう。しかし、不要品の処分の手段として寄付が心に浮かぶとき、まず問題になるのは、寄付されるべきモノについて、寄付を受ける側が設定するいくつもの条件であり、私たちは、みずからが寄付しようとするモノがこの条件を満たしているかどうかを点検し、モノを選別しなければなりません。もちろん、この作業は、それ自体として「捨てるコスト」となります。

 私は、寄付することができるかも知れないモノでも、不要なものは原則としてすべて単純に廃棄することに決めています。寄付先を探したり、相手が設定する条件を考慮したりするのに費やす時間や体力、さらに、モノを届けるために負担しなければならない運賃をがもったないからであり、多少の手数料を支払っても、ただ廃棄する方が全体として安上がりだからです。リサイクルやフリーマーケットへの出品についてもまた、事情は同じです。いずれも、ゴミを視界から消去するための手段としては高コストであり、私がこれらを優先的に選択することはありません。

 それでも、私の周囲には、決して使わないのにどうしても捨てられないモノが溢れています。膨大な蔵書、親族が遺した「コレクション」、正体不明のガラクタ、これらは、私の生活空間をたえず圧迫しており、しかも、残念ながら、私には、これらを追い払う手段を見つけることができていません。これらの「可能的なゴミ」に関するかぎり、「捨てるコスト」は、もはや計算不可能なほどの額になっているはずです・・・・・・。

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