※この文章は、「ウクライナからの避難民の積極的な受け入れに反対する(前篇)」の続きです。
それでも、ウクライナからの避難民を受け入れる日本人の側に「耐性」があるなら、つまり、完全に異質な背景を持つ人々の集団を——よくも悪くも——「放っておく」度量があるなら、大した問題は発生しないかも知れません。
しかし、私の見るところ、わが国の社会には、自分たちがよかれと思って差し出したものに十分な感謝を示さず、社会に同化することを望まないよそ者たちには非常に狭量であり、このような人々を徹底的に排斥しようとする明確な傾向があります。
今のところ、戦争をめぐる報道に日本国民全員が否応なくさらされているため、ウクライナからの避難民は、当面は、一種の「珍獣」として歓迎されるかも知れません。しかし、時間の経過とともに、避難してきた人々が「珍獣」でも何でもない「普通の人々」であり、彼ら/彼女らにとり、日本が「やむをえず一時的に滞在している場所」にすぎないことが誰の目にも明らかになるはずです。このとき、避難民——この場合は「難民」でも同じですが——の受け入れの経験に乏しい日本において、それでもなお多くの日本人がウクライナからの避難民を積極的に受け入れ続けるべきであるという世論を支持するとは考えられません。それどころか、世論が一変し、「自国にとどまることができないやむをえない事情があって日本に滞在しているとしても、日本に同化しようとしない外国人は退去させるべき、あるいは、隔離すべきである」などという極端な主張がSNS上に溢れる可能性すら、ないとはいえないような気がします。
第2に、ウクライナからの避難民を積極的に受け入れるという措置は、海外の紛争から逃れてきた人々の処遇に関するこれまでの政府の消極的な方針と相容れません。世界には——明確な「戦争」という形態ではないとしても——ウクライナと同等、あるいは、ウクライナ以上に大規模な形で事実上の紛争が進行している地域がいくつもあります。また、これらの地域の多くでは、この状態がウクライナよりもはるかに長期にわたって続いています。
今回の戦争をきっかけに避難民の受け入れに関する方針を転換するのなら、日本政府は、今後、たとえばチベット、ウイグル、香港、あるいは、さらに遠方のアフガニスタン、シリア、スーダン、ソマリアなどから避難民として日本への渡航を希望する人々に対してもまた、同じような措置を講じる責務を負うことになるはずですが、残念ながら、今回は、あくまでも場当たり的なパフォーマンスであり、国際社会に対する責務を負う覚悟が背後にあるようには見えません。そして、受け入れるのがウクライナ人ではなくソマリア人であるとしても方針を変えないという覚悟がないのなら、ウクライナの避難民の受け入れに「前のめり」になることは、日本の対外的な信用をいちじるしく損ねることにしかならないのではないか、今回の措置について、私はこのような懸念を抱いています。