昨日、次の記事を読みました。
河瀬直美氏のこの発言——というか、正確には、発言の一部を切り取って1文に圧縮したもの——は、ネット上に否定的な反応を惹き起こしたようです。私がチェックしたかぎりでは、河瀬氏の発言に対する肯定的な批評は、上の記事に付けられた朝日新聞論説委員の増谷文生氏の解説だけでした。(増谷氏は、記事本体が省略した河瀬氏の発言の全体を紹介しています。)
ただ、私は、河瀬氏の発言の全体を確認する手段を持ちません。したがって、私の理解が正しいという自信はありませんが、それでも、河瀬氏の発言が「炎上」するような性質のものであるようには思われませんでした。
ネット上で河瀬氏を叩いている人々は、河瀬氏の発言に「ロシアの侵攻にもそれなりの正当性がある」「ウクライナが正しいとは言えない」などの主張を読みとり、騒いでいるようです。しかし、私が虚心に素朴に読んだかぎりでは、ロシアによる侵略を是としていると理解できるような箇所は見当たりませんでした。河瀬氏の発言を炎上させた人々は、見出しに含まれる「ロシアを悪者にすることは簡単」という文字列が視界に飛び込んできた瞬間に頭に血が上り、河瀬氏の発言を冷静に受け止めることができなくなったのではないかと想像します。
河瀬氏は、「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である」と述べたあと、次のように続けます。
けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか? 人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があることを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います
発言の前半では、自分と立場を異にする者が目の前に現れたとき、これに無造作に「悪」のレッテル貼ってはならない、という意味のことが語られます。
相手に「悪」のレッテルを貼ることは、その状況において自分は絶対に正しく、自分と立場を異にする以上、相手は悪であると一方的に決めつけることであり、相手の身なってみる機会と努力をすすんで放棄することに他ならないからです。
「正/邪」「善/悪」「真/偽」などの単純な対立の構図を設定し、自分を「正」や「善」や「真」の立場に置いて「安心」することにより、本来は複雑であるはずの現実が見えなくなる危険がある、これが発言の前半部分です。(後篇に続く)