今月から、2年ぶりに教室で講義するようになりました。この間、講義することの意味をさまざまな観点から考えてきました。
形式的には、教室に学生を集めて授業することにそれなりの効用があることは間違いありません。(下に続く)
ただ、この効用を学生が自覚しているのかどうか、また、少なくとも私が担当する授業に関し、学生が何らかの効用を期待しているのかどうか、このような点は、私にはわかりません。
現在のところ、新型コロナウィルス感染症の流行の帰趣はいまだ明らかになってはいません。そのため、感染者数が急に増え、学期の途中で教室での授業が続けられなくなる可能性があることを想定し、授業のスタイルを工夫しています。
具体的には、成績評価に関係する部分はすべてオンラインで完結させ、教室に一度も来なくても——教室に来る学生とくらべ、情報にアクセスするのに若干の手間はかかるものの——単位の取得が可能となるよう配慮しています。もっとも、このような配慮は私だけのものではなく、現時点でのわが国の大学の教師の多くが、似たようなことを試みているはずです。
私は、今のところ、今年の4月からの授業のスタイルを「過渡的な措置」と見なしています。上に述べたような効用が十分ではないからです。しかし、ことによると、これは、過渡的なものでは終わらず、新型コロナウィルス感染症の流行が完全に終息してからも続くことになるかも知れません。
そして、このような中途半端なスタイルの授業が常態となったとき、私たちは、大学というものにおいて学ぶことの意義、いや、それ以上に、大学で教えることの意義というものを、あらためて考えなければならなくなるでしょう。