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他人に対する失望について

by 清水真木

 私たちは、ある年齢以上なら誰でも、他人に裏切られて失望した経験を持っています。

 もちろん、他人に対する期待の大小は人によってまちまちであり、したがって、他人に「裏切られた」と感じるときの失望の深さもまた、誰にとっても同じというわけではないかも知れません。

 私たちが他人から裏切られたと感じるためには、何よりもまず、私が他人に対して何かを期待し、かつ、他人のふるまいが私たちの期待に反することが必要となります。他人に期待することが大きいほど、他人のふるまいが私を喜ばせないときの失望もまた深くなります。

 期待すること、期待を裏切られること、そして、失望することのあいだにこのような関係が認められるなら、また、失望が不幸に属するものであり、失望を回避するのがつねに望ましいことであるなら、とるべき途に関し、私たちには選択の余地はありません。

 すなわち、他人には何も期待せず、私たちを決して裏切らないものを人生と生活の支えとすること、これが幸福となるための——厳密には、不幸を逃れるための——唯一の選択肢となります1 。自分と他人のあいだに明瞭な境界を設定し、自分の意のままにならないものには何も期待してはならない、ストア主義以来、これは、幸福な人生を送るためのもっとも大切な心構えと見なされてきました。

 よく知られているように、ストアの倫理学によれば、私たちを決して裏切らないもの、私たちが完全にコントロール可能なものは、私たちの内面だけです。私たちの内面は、他人が決して踏み込むことができない完全な自由の領域であり、私たちの外部に原因を持つもの——その代表が「感情=受動」(パトス)です——に動かされることなく、この領域をみずから支配することが心の平静への途であり、幸福への途であり、自然な生への途であるとストア主義者たちは理解していたのです。

  1. これは、他人のことを私たちと同じような「人間」として扱うかぎりにおける唯一の可能性です。相手を「人間」と見なさないのなら、私たちの意向に暴力を用いて従わせることもまた選択肢となるかも知れません。 []

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