※この文章は、「歴史教科書における沖縄戦の記述について(前篇)」の続きです。
実際、集団自決については、軍の命令/強制/誘導があったという記載が教科書にあり、日本史を学ぶすべての者があらかじめこれを一応共有していることを前提として初めて、「軍の命令が本当にあったかどうか」をオープンな形で吟味することが可能となります。「軍の関与などない」と主張することができるためにすら、集団自決および軍の関与が教科書にあらかじめ記されていることが必要なのです。
しかし、「語らない」ことによって書き換えられた歴史を眺めていても、何が語られていないのかを知ることができません。沖縄戦において集団自決があったこと、そして、その集団自決に——規模や形態については議論があるものの——軍が関与したことを知っているかどうか、あるいは、少なくとも、これらが事実であると一般に信じられていることを知っているかどうかは、沖縄および太平洋戦争の評価やイメージに途方もなく大きな影響を与えるでしょう。
私にとり、沖縄戦における集団自決は、社会を形作り日常的な生活を支える「人間性」など、戦争の暴力によって簡単に雲散霧消してしまうもろいものであるということを直観的に教えてくれる事例の1つです。当然、このような洞察を前提とすることにより、初めて、戦争を問題解決の手段とすべきではないという主張、あるいは、平和で普通の生活なるものがありがたいものであるという主張にリアリティが与えられるはずです。
これに対し、集団自決や軍の関与について、これを耳にしたことすらない者には、沖縄における諸問題が理解不可能であるばかりではなく、これ以前に、戦争について、何か「勇ましい」「格好よい」ものであるかのような錯覚に囚われることになりかねません。
いや、ことによると、日本人の一部の世代では、戦争に関する歪んだ見方が支配的になりつつあるのかも知れません。というのも、恐ろしいことに、ロシアによるウクライナへの侵攻に関連し、ウクライナを応援するつもりなのか、「ウクライナ頑張れ」などという叫び声がサイバー空間のあちこちから聞こえてくるからです。もちろん、ウクライナを応援するのは大いに結構なことであり、金銭面の支援やロシアに対する制裁はつねに好ましいことでしょう。それでも、戦争の当事国でもないわが国の国民は、ウクライナの人々に対し「ロシアと戦え」などと無邪気に呼びかけるべきではありません。このような呼びかけは、自分たちが、戦争の破壊的な作用について歴史から何も学ばなかったバカであると告白しているのと同じことだからです。
私は、「歴史をめぐる現在の状況が昭和初期を想起させる」とまで言うつもりはありません。それでも、ジョージ・サンタヤーナの「過去を思い出すことができない者は、これを繰り返すことを運命づけられている」(Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.) という名言がわが国において現実のものとなる可能性は、集団自決における軍の関与をめぐる記述が削除されることにより、少しだけ高くなったように思われるのです。