※この文章は、「次の文章を読んで反論しなさい(その1)」の続きです。
残念ながら、上記の小論文が使用した私の文章のテーマは、誰でも賛否を簡単に明らかにすることができるようなものではなく、むしろ、受験者の多くは、試験問題を見るまで、当のテーマについて時間をかけて考えたことが一度もなかったはずです。この意味において、問題の難易度は相当に高かったのではないかと想像します。
それでも、普段の生活において、政治、社会、文化に関する具体的な諸問題をめぐる意見を目にするたびに、これに対する反論を試しに組み立ててみる訓練を習慣的に続けているなら、つまり、何らかの問題について何らかの主張に出会うとき、仮想的な反論と併せて「批判的に吟味する」ことを習慣としているなら、物事を多面的に眺める能力を身につけることができるに違いありません。
私の場合、政治、社会、文化に関する大小さまざまな問題に関する主張に出会うたびに、異なる立場からの反論を心の中で組み立て、この反論と対照させながらもとの主張を吟味するよう心がけています。これは、盤面を回転させ、チェスを1人2役でプレイするのと同じようなものであり、あらゆる価値評価を「三項関係」のもとで眺める試みであると言うことができます。私の文章への反論を求める小論文は、当のテーマを受験者が本当の意味において考えることを促す点において、すぐれた問題であるように思われます。
もちろん、入試の小論文の問題文に作品を使用された著者の中には、「次の文章を読んで反論しなさい」というような設問を見て頭に血が上り、「俺の意見に賛成できないのか」「入試で俺のことを貶めるつもりなのか」「反対を受験者に強制するなど問題外」「偏向教育」などと叫びながら憤慨する人がいることを私は知っています。しかし、当然のことながら、入試の出題者は、自分と立場を異にする著者を吊し上げる機会として入試を目的外使用しているわけではありません。入試問題というのは、何重ものチェックを経たのちに受験者の目に触れるわけですから、誰が見ても明らかな「偏向」が放置されるはずもありません。むしろ、「次の文章を読んで反論しなさい」は、文章を読むときの基本的な態度に私たちの目を向けさせる点で、すぐれたものであるとように思われます。
ところで、この文章を書きながら、私は、とても嫌な予感に囚われています。それほど遠くない将来において、「反論力」(?)というような表題を持つビジネス書あるいは自己啓発書が姿を現すような気がするのです。
現在すでに、「対話力」「雑談力」「質問力」「説明力」など、二文字熟語に対し手当たり次第に「力」を加えて作られた安直かつ不自然な表現をタイトルとする書物が氾濫しています。(その前には、「老人力」というそれ自体としては意味不明な言葉もありました。)
「反論」を「力」と強引に結びつけることで生まれる「反論力」などというみっともない3文字が、いつか書店の店頭で視界に入ってくることになるかも知れません・・・・・・。