※この文章は、「社会の変化に抵抗することについて(その1)」の続きです。
たとえば、完全に見ず知らずの他人とのあいだの書類の交換や形式的な手続きが必要であり、かつ、電子的な手段を用いることができない場合、利用可能な唯一の手段は郵便です。実際、電子メールを使うことなく私に何か文書を送るには、私の自宅あるいは大学に郵送する以外に方法はありません。
出版社が自社の出版物に私の作品を掲載するときには、著作権法にもとづき、原則として事前の使用許諾申請が必要となります。そして、出版社が私の自宅の住所を知らず、メールアドレスも知らなければ、申請書を大学宛てに郵送する以外に方法はありません1 。
このような書類では、電子的な手段での書類の交換を当然の前提としているせいなのでしょう、回答期限までの時間が極端に短いのが普通です。大学のメールボックスに入っている書類を確認したときには回答期限が過ぎていた、ということが珍しくありません。(回答期限が過ぎたものには回答しても仕方がない場合が多く、実際、許諾申請は回答せず放置される——したがって、作品は使用されない——のが普通です。)
たしかに、連絡をとる手段がわからない他人が相手の場合、「郵便で書類をやりとりしなければならないから、時間に余裕をもって送り出そう」と考えるのは当然の礼儀です。少なくとも私はこのように考えます。しかし、現代の社会が、書類を交換するのに必要な時間がそれ自体としてはゼロであることを前提とするかぎり、この前提を共有しない者は、社会の動きについて行くための負担を強いられるはずです。そして、その負担は、1つひとつは大したものではないとしても、全体としては、生活を歪める相当な圧力になるでしょう。
銀行で用件を済ませて自宅に戻ってから、私は、他の人々が同じ用件をどのような手段で処理しているのか、ネットで調べてみました。すると、窓口に出向かなくても、ATMの操作で完了させることが可能であるらしいことがわかりました。私はこれまで、少なくとも20年近くにわたり、毎年、銀行の窓口を同じ用件で訪れ、そのたびに、ながい順番待ちを余儀なくされていましたが、来年からは、行動を少し変えるつもりです。
- 私が所属する学部の代表アドレスに出版社が書類をメールで送りつけてくることがときどきあります。私は、このようなメールを事務室から転送してもらって受け取ることになるのですが、メールをチェックする職員にとっては、代表アドレス宛に送りつけられた個人宛のメールを転送する作業は、迷惑以外の何ものでもありません。 [↩]