Home やや知的なこと 「私」が誰かを「友人」と呼ぶことが可能であるためには、「三項関係」が成立していなければならないことについて

「私」が誰かを「友人」と呼ぶことが可能であるためには、「三項関係」が成立していなければならないことについて

by 清水真木

 昨日、ネットで次のような文章を読みました。

 以下、これに関連して思いついたことを書きます。

 私の知り合いのうち誰かが私の「友人」であると言われるとき、友人と友人以外の知り合いのあいだにはどのような違いが認められるのか。

 この問いには、正確さを異にするさまざまな答えが可能です。たとえば、誰かを友人と見なすことができるかどうかは、当の相手と「親しい」かどうかによると考える人がいるでしょう。このような人にとり、友人の定義は、「親しい他人」となります。たしかに、「親しい他人」は、「友人」について誰の心にも最初に浮かぶ定義であるかも知れません。

 しかし、残念ながら、この定義からわかることは何もありません。この定義では、「友人」という語が、「友人」以上に意味の明らかではない「親しい他人」へと言い換えられているにすぎず、これは、それ自体としては、友人の意味について何も説明しないからです。

 また、始末の悪いことに、これは、曖昧であるとともに混乱した定義です。つまり、「友人とは親しい他人である」という文字列は、それ自体としては、定義の前提となる友人をめぐる認識が妥当なものであるかどうかについて何も教えないのです。

 私が誰かと親しいと感じ、誰かと気が合うと感じるとき、そして、この事実にもとづいて誰かを私の友人と見なすとき、私がまなざしを向けているのは、さしあたり、私が肯定的な態度をとりうる何かを具えたように感じられる当の相手であるのが普通です。しかし、私と相手というこれら2人の直接の間柄には友情は成立しません。

 私が相手を他ならぬ友人と見なすことができるためには、両者のあいだに、さらに別の第3のものが認められなければなりません。この第3のものとは、私と相手が共有するもの、あるいは、両者に共通するものであり、かつ。両者にとって大切なものです。大切なものを共有していること、これが私が相手を友人と見なし——あるいは、同じことですが——相手が私を友人と見なすための条件となります。私の友人とは、「私にとって大切なものを共有している私の知り合い」であることになります。

 この場合、共有しているのは、好み、関心、利害、記憶のような形を持たないものでもかまいませんし、土地や財産のように形があるものでもかまいません。このような共有された大切なものを媒介とする「三項関係」こそ、友人を他の知り合いから区別する標識なのです。

 私にとり友人が大切な存在であるのは、私と友人が共有するものが両者にとって大切であるかぎりにおいてなのです。古代ギリシアでは、共同体としてのポリス(都市国家)を形作る市民が「友人」であり、友情こそ国家の基礎であると考えられていました。その理由は、市民が大切なものとしてのポリスを対等な立場で共有する——したがって、その運命について対等の立場で議論する資格を持つ——からです。国家というものがラテン語で「共有されたもの」(res publica => republic(共和国)) と呼ばれていたのもまた、同じ理由によります。同じ国の国民はすべて対等の立場で同じ1つのもの(=国家)を共有しており、このかぎりにおいて友人なのです。

関連する投稿

コメントをお願いします。