昨日、次のような文章を書きました。以下はその続きです。
このような観点から友人を眺めるなら、友人が大切であることの意味は、恋人が大切であることの意味からは明確に区別されなければならないことがわかります。
私と誰かが知り合いであるなら、私が相手を友人として遇することは、相手が私を友人として遇することと一体でなければなりません。両者は対等であり、「私は誰かの友人であるが、その誰かは私のことを友人と見なさない」などということは——共有されたものに相手が気づいていないのでないかぎり——形式的には不可能です。
これに対し、恋愛においては、「私は誰かのことを愛しているが、その誰かは私のことを愛していない」という状況を想定することが可能です。なぜなら、恋愛というのは、第3項によって媒介されない状況、つまり、私と相手という「二項関係」のもとでも成立することが可能なタイプの間柄だからです。
恋愛において、私は——共有された何ものかではなく——相手を直に大切なものと見なします。したがって、私にとり相手が大切な存在であるとしても、相手の方は私を大切なものとは認めないかも知れません。恋愛が必ずしも対等な対人関係ではないこと、また、友人の数には形式的な限度がないのに反し、恋愛が基本的に3人以上に拡大しない閉じた関係である理由です。
友情が「三項関係」を前提とするのに対し、恋愛とは本質的に、「二項関係」の間柄なのです。
「恋愛と友情はどのように違うか。」この問いに答える試みは、主に文学的な言論空間において繰り返し姿を現します。そして、これまで述べてきたような理解を前提とするなら、この問いに対する答えは明らかでしょう。
すなわち、形式的に考えるなら、友人のあいだで恋愛が成立する可能性がつねにあるのに対し、恋愛という間柄にある2人のあいだの関係が友情にそのまま移行するとはかぎらないことになります。恋人のあいだで友情が生まれるためには、新たな第3項、つまり、共有された大切なものが新たに必要となるからです。
また、恋愛と友情の差異の問題と同じように、「女性のあいだの友情の可能性」もまた、近世以降、ヨーロッパの文学において繰り返し取り上げられてきたテーマです。この問題もまた、友情に関する上記のような理解を前提とするなら、次のように書き換えることが可能です。
「女性のあいだで友情は可能か」という問いは、「女性のあいだに友情は成り立たないのではないか」という疑念の言い換えです。そして、「女性のあいだでは友情が生まれない」という主張は、「女性には、『自分と相手』という二項関係しか設定することができず、誰かを『大切なものを共有しているがゆえに大切な存在」』と見なすことができない」ことを意味します。私は、この問題をめぐる自分の立場を明らかにしませんが、「女性のあいだで友情は可能か」という問いの背後に、女性のあいだの肯定的な間柄が多少なりとも「恋愛」的な色合いを帯びているという漠然とした了解——あるいは思い込み——を想定することは不可能ではないように思われます。