※この文章は、「著作権継承者が見た『国立国会図書館の個人向けデジタル化資料送信サービス』について(前篇)」の続きです。
今回の国会図書館のサービスもまた、「オプトアウトの申し出がなければ原則としてすべて公開」という点についてはGoogleと同じです。ただ、国会図書館は、流通に関する最新の情報をたえず自動的に収集してこれを国会図書館側の目録と照合し、その結果をもとに資料の送信の可否を個別に決めているらしく、現在でも書店で入手可能であるにもかかわらず送信可能な資料のリストに登載されていたのは、148点のうちわずか1点でした。
もちろん、理屈の上では、祖父の著作権継承者という地位を悪用(?)し、上に引用した除外基準の③にもとづいて148点すべてを送信停止することができないわけではありません。(実際、Googleブックスの騒ぎのときには、そのような措置を講じました。)ただ、図書館で普通に閲覧されてきた著作物のネット上での閲覧を差し止めるほどの「大義」はなく、結局、1点についてのみ除外を申請しました。
なお、この「個人送信サービス」では、書店の店頭で入手可能なものは対象から除外されています。しかし、たとえば「他の図書館が所蔵している」という事実は、特定の資料の送信を妨げる理由とはなっていないようです。1969(昭和44)年以降の図書が送信の対象から除外されたのは、ことによると、このサービスが地域の公共図書館に与える影響を考慮した結果であるのかも知れません。
国会図書館の新しいサービスは、図書館の「ヘビーユーザー」には大変に便利です。特定の資料の1ページを確認するためだけにわざわざ国会図書館に出向き、資料が届くまでさんざん待たされる苦痛から解放されるからです。しかし、それとともに、新しい資料が送信の対象に加えられることになれば、公共図書館の利用者や貸出冊数が減少することもまたは避けられないはずです1 。
たしかに、所蔵する資料の点数という点では、地域の小さな公共図書館は、国会図書館とは比較になりません。ただ、全国にある公共図書館の使命は、民主主義を守り、そして、発展させることであり、この点は、国会図書館には代わることができないものです。地域の小さな図書館こそ、民主主義の砦なのです。
「個人向けデジタル化資料送信サービス」は、「調べもの」の効率を格段に向上させる可能性があります。しかし、これがきっかけになり、図書館の世界における国立国会図書館が、書籍の流通システムにおけるアマゾンと同じような位置を占め、他の図書館の発展を阻害し、その機能の維持を困難にするのではないか・・・・・・、私はこのような懸念を抱いています。国会図書館の「アマゾン化」により、たとえば「50年以上前の旧い資料は国会図書館だけににあれば十分」「公共図書館は無料貸本屋でかまわない」というような誤った考え方が蔓延し、その結果、長期にわたって利用されることを想定した高額の資料を公共図書館が購入しなくなったり、「国会図書館に所蔵されている」という理由で旧い資料が安易に除籍されたりする可能性がないとは言えないように思われるのです。
- そもそも、公共図書館への予算の増減を入館者数や貸出冊数に連動させることには何の合理性も認められません。入館者数や貸出冊数を指標として予算額を算出することを最初に思いついたのが誰なのか、私は知りませんが、それは、図書館など一切利用したことがない者であったに違いありません。 [↩]