※この文章は、「民間企業の経営者はパソコンが使えなくてもつとまるものなのか(前篇)」の続きです。
大学については、これが世間の厳しい評価にさらされない閉じた空間であり、数多くの「非常識」が許されていると普通には信じられています。したがって、「パソコンが使えない大学教授」なるものの存在についてもまた、大学の内部に認められる数多くの非常識の1つとして、「世間ではそんな甘えは通用しない」という紋切り型とともに片づけられてしまうかも知れません。
しかし、現実には、このようなレベルの「デジタル・デバイド」の割合は、大学の教員よりも、むしろ、大学の外部の、つまり「そんな甘えは通用しない」はずの「世間」、特に民間企業の社長や重役のあいだではるかに高く、この意味において、大学よりも民間企業の方が深刻な「非常識」に囚われていると言うことができます。
現代の社会では、情報技術に関しそれなりに高度なリテラシーが広い範囲で要求されています。それだけに、利潤を目的とする社会集団の内部で重要な意思決定を担うはずの人々がデジタル・リテラシーについて低い水準にとどまるというのは、ありうべからざることであるように思われるのです。
もちろん、デジタル機器の操作に関して要求されるスキルは、時間の経過とともにたえず変化します。以前は必須だったものが不要になることもあれば、反対に、技術の進歩によるICTの活用の拡大により新たに要求されるようになったりすることもあります。企業の経営者にとり、情報技術の進歩をたえずキャッチアップしたり、パソコンの使い方に習熟したりしなければならないとは私は必ずしも考えません。
それでも、メールの送受信もできない、ビデオ会議に参加するための機器の操作もできない、クラウド上で共有されたファイルの内容を確認することすらできない・・・・・・、このような人々にとり、情報技術やパソコンは単なる「ブラックボックス」とならざるをえないでしょう。
情報技術は、20世紀末以降の社会をそれ以前から区別するもっとも重要な標識です。したがって、情報技術について平均以上のリテラシーを身につけていることは、世代に関係なく、来るべき時代について判断し、そして、行動を起こすための最低限の条件となるはずです。
けれども、実際には、民間企業には、今なお、パソコンを使うことができず、情報技術の発展についても何も知らない人々、コンピューターやインターネットの可能性を自分で探索したことがない人々、つまり「昭和」をそのまま生きている人々が散見します。このような人々によって経営上の意思決定が行われる企業の未来は明るいものではないように私には思われます。