※この文章は、「年齢を重ねてよかったと思えることの1つについて(前篇)」の続きです。
また、それなりの業績があるらしい——しかし、私とは関心の所在が異なる——年長の人物と会うときには、「予習」を自分に課していました。つまり、相手の著作のうち、少なくとも代表作と最新作に当たるものを手に入れ、事前に目を通すことにしていたのです。相手の業績について何も知らない状態で会うのは相手に失礼であると考えていたからです。(もちろん、この作業は相当な苦痛です。)同じ人物と2度目、3度目に会う場合も、最近の業績をネットでその都度検索してチェックしていました。
しかし、何年か前、私は、上に述べたような努力をすべて放棄しました。どれほど一般に名が知られた人物のことが話題になろうとも、私自身の関心のレーダーによって捕捉されないかぎり、「知りません」「名前以外は知りません」などと率直に反応するようになりました。
また、誰かと初めて会うときにも、その人物について「予習」するのはやめました。今では、相手の方が一般には有名であるかも知れない場合でも、(話を続ける上で必要であるなら、)自己紹介を求めることにしています。
この変化は、「見栄をはらなくなった」「目の前にいる他人にどう思われるか気にしなくなった」と肯定的に言い表すことが可能であり、このように言い表すことが可能であるかぎりにおいて、この変化は「成長」として受け止めて差し支えないと私は勝手に決めています。もちろん、私は、この段階に到達するのに50年かかりましたが、人生のさらに早い時期にここに辿りついた人は、当然いるはずです。
時間と体力を費やして見栄をはったり、相手に無理に好印象を与えようとしたりしても、得られるものは多くはありません。私は、このことを無数の失敗から学び、そして、ようやく悪しき習慣を捨てました。
これまでのところ、人生経験が私に惹き起こした変化は、全体として、私を率直な存在にするものであったと言うことができるように思われます。今の私を基準とするなら、残念ながら、20歳代、30歳代の私は、「破綻した偽善者」以外の何者でもありませんでした。
今後、年齢を重ねることにより、率直さの新たな段階に到達することができようになるとするなら、歳をとることには、それだけで十分に積極的な意味があることになるでしょう。(もちろん、「率直」の行き着くところがシノペのディオゲネスのライフスタイルではないとすれば、の話ですが。)