※この文章は、「本の『ザッピング』に抗して(前篇)」の続きです。
そして、同じことは、冒頭に言及した”Kindle Unlimited”についても言うことができます。
幸いなことに、この定額サービスで配信される書目は、電子書籍のうちごく一部にとどまっているようです。それでも、「タイトルで検索しヒットした作品がたまたま”Kindle Unlimited”の対象になっていた」場合ではなく、「”Kindle Unlimited”の対象になっている作品から何かを選ぶ」場合、私は、配信されている書物に対し、ザッピングにおいて私たちの目の前を流れて行く番組と同じような役割を期待します。
アマゾンにおいて、あるいは、他のネット書店において本を検索するとき、あるいは、図書館の蔵書目録を検索するとき、私は、その都度あらかじめ、たとえ漠然とした形であるとしても、何らかの問いや関心を心に抱き、本を手に取ることにより、問いに対する答えを手に入れたり、関心を持っているテーマについて視野を広げたりすることを期待しています。この意味において、個別の書物へのアクセスは、経験の拡張を目指す本質的に能動的なものであると考えることができます。そして、この経験の拡張こそ、書物の本来の役割であるに違いありません。
ところが、定額制の読み放題サービスで配信されている電子書籍から何かを選ぶとき、私たちが書物に期待するのは経験の拡張でなく、単なる「消閑」です。文字を辿るときに行間を読む労苦を読者に要求しないもの、すべてが透明でわかりやすいもの、そして、何よりもまず、不快ではない形で時間をやりすごすことを可能にしてくれるものが優先的に選ばれるはずです。著者名も、タイトルも、もちろん、版元も、私たちの記憶には残りません。読み終わった瞬間に、あるいは、文字面が画面から消えた瞬間に、当の書物は、その使命を終えることになります。
定額制が発明されて以来、特に映像作品は、ザッピングの大きな被害を被ってきました。定額制サービスの利用者によるザッピングは、特に映画やテレビ番組の製作に大きな歪みを与え、作品の品質を大いに毀損しているように見えます。(気が散った状態で鑑賞しても内容を理解することができるようにするためです。)
本についてもまた、すでに「早わかり」「要約」などが氾濫しており、このかぎりでは、「刹那的に消費されるコンテンツ」化と無縁ではありませんでした。しかし、定額制の読み放題のサービスが拡大することになれば、映像作品と同じように、本についてもまた、透明な、浅薄な、読者の機嫌をとるような、それとともに、読者を同じ本に引きとめておくためのキャッチーな表現や体裁が工夫されるのではないか、刹那的に消費されることに最適化された文字の塊が、時間をかけて理解することが必要であり有意義でもあるような書物を市場から駆逐してしまうのではないか、そして、書物の文化を大きく歪めることになるのではないか、私は、このようなことを危惧しています。