自分を傷つけたり、自分のものの見方の修正を迫るようなものは、誰にとっても不快です。そして、私たちの努力は何もかも、この不快な感じを解消することを目的としています。
それでは、日常生活において出会われる不快な刺戟をあらかじめすべて遮断し、快いものだけが意識に現れるように工夫することが可能であるなら、これは幸せなことでしょうか。
しかし、欠乏や苦痛を感じることなく、ものの見方——それが徹頭徹尾勘違いであるとしても——の修正を求められることもないとしても、私たちは、この状態を幸せとは受け止めないはずです。そして、みずからが身を置く環境の外部へと脱出することを試みるに違いありません。このような環境の内部では、自分が生きていることのリアリティが感じられないはずだからです。
そもそも、私は、ただ「ある」だけでは、自分が存在しているという実感を持つことができません。自分の存在を確信することができるためには、私ではない「他」なるもの、私の意のままにならない何かと出会い、自分のあり方を反省することが絶対に必要です。「他」なるものへと開かれることにより初めて、単なる体験を超える「経験」が可能となるのであり、自分の存在と自由と幸福について考えることができるようになるのです。人間として生きるとは、「他」なるものに開かれ、これを他なるものとして受け止めることに他ならないと言うことができます。
見たいものだけを見る人々、信じたいものだけを信じる人々、意見を同じくしない他人や、自分の機嫌をとってくれない他人を即座に視界から排除してしまう人々、・・・・・・、もちろん、このような人々は決して少なくありません。不快なものへの耐性が極端に低いのでしょう、政治についても、社会についても、文化についても、不快な要素を徹底的に排除し、気に入ったもの、決して不快にしないことがあらかじめ約束されたものだけをつまみ食いする人が少なくありません。しかし、このような人々は、「他」なるものと出会い、自分の本当のあり方を考える機会をみずから放棄しているばかりではなく、そもそも、本当の意味において存在すらしていないことになります。
誰にとっても、不快であるよりは快い方が好ましいに決まっています。しかし、不快なものから逃れるとは、これを反射的に斥けることではなく、不快なものを受け止め、これを時間をかけて消化すること、他なるものをみずからのものとすることに他ならないのです。