このような観点から眺めるかぎり、誰か/何かに対する同じ働きかけはすべて、私が当の誰か/何かを愛しているかどうかには関係なく遂行可能です。愛という感情が虚構ではないとしても、すべての感情と同じように、愛は、それ自体としては外部からは見えません。当然、それは、愛からは区別された何ものかを〈現れ〉として要求するはずです。しかし、愛とその〈現れ〉の結合に必然性はありません。両者の結びつきは本質的に恣意的です。どれほど愛する相手でも、「花束を贈る」ことがつねに愛の適切な〈現れ〉として受け止められるわけではないのです。
誰か/何かを「愛する」者の「愛する」行動を手がかりに愛の意味を問う試みは生産的ではありません。「愛するとは何をすることであるのか」という問いには答えがないからです。何をしても、あるいは、何をしなくても、愛していることにもなり、愛していないことにもなる、という実につまらないことが明らかになるだけなのです。
私が「誰か/何かを愛している」ことをどれほど強く主張しても、この主張には、「愛している『つもり』である」以上の意味はありません。愛は、個人的な感情や気分に還元されるべきものではなく、個人的な感情や気分を手がかりとするかぎり、愛の意味を問う試みは袋小路に入り込むことを避けられないでしょう。
「愛する」という動詞が使われるとき、これは、誰か/何かへの具体的な働きかけを意味するのではありません。むしろ、この動詞の使用は——何を主語とするにしても——さしあたり、自分以外の誰か/何かへの肯定的な傾向性のようなものへの「信仰告白」の表現として受け止められるのが適当であるに違いありません。
そして、このような理解を前提とするなら、「愛」の意味には関係なく、動詞「愛する」の主語は、非人称でしかありえないことになります。さらに、同じ理由により、「愛する」には、限定された直接目的語もふさわしくないでしょう。それは、”it rains”や”it snows”のようにな非人称の自動詞として用いられるべきものであるに違いありません。
誰か/何かを愛しているという自覚が私の心に生まれ、そして、この自覚をうけ、私が当の誰か/何かに働きかけるのではなく、おそらく、これとは反対に、非人称的な愛の成立を私が感受する——しかし、感受しないこともありうる——というのが本来の順序なのでしょう。
愛は、個人の自覚と無関係ではないとしても、少なくとも、個人の自覚を前提とするものではありません。この意味において、まず問われなければならないとするなら、それは、「自覚なき愛」の可能性であるに違いありません。