※この文章は、「ふたたび「手間のかかるインターネット」について、あるいは、集中から分散への道について(前篇)」の続きです。
パソコンではなくスマホでアクセスすることを前提としてサービスが提供されるとともに、しかし、その分、ネットの利用者は、全体として不精で受動的でわがままになりつつあります。現在は、一方において、末端消費者は、スマホの画面のタップだけで何もかも済ませることができないとただちに不満を抱き、他方において、サービスを提供する側は、この不満を先回りして解消することにより、スマホによるネット利用者の愚民化を促進する、このようなサイクルが作り上げられているようにも見えます。
しかし、冷静に考えるなら、これは、表現の自由にとっては好都合であると私は考えます。というのも、平均的なネットの利用者は、上記のようなプラットフォームにほぼ完全に囲い込まれているせいで、その外部に広がるネットの広大な領域には、ほとんど誰も目を向けなくなっているからです。(ここで私の念頭にあるのは、いわゆる「ダークウェブ」ではありません。)
ネット上で万人に向かって公開されてはいる、また、Googleで検索するなら、何百番目かにはヒットする、このような目立たないウェブサイトを作ることは、現在では特に難しくはありません。
上記のようなプラットフォームに作品や記事を投稿するときには、それぞれの企業が定める複雑な——また、大抵の場合は曖昧な——ガイドラインを参照し、これに従わなければなりません。プラットフォームが寡占状態にあるせいで、これを一種の私的検閲と見なす人は少なくありません。これに対し、「アクセスを増やして広告収入で儲ける」などという余計な考えを捨て、かつ、現実の世界を支配する法律を遵守するかぎり、自分のウェブサイトの内部なら、他人が勝手に作ったガイドラインなどありません。何をするのも基本的に自由です。
もちろん、(ネットへのアクセスの手段がスマホに限られる)平均的なネット利用者からは、わざわざ検索エンジンを使ってこのようなサイトに辿りつく根気も意欲もすでに奪われていますから、見ず知らずの他人の神経を逆撫でして「炎上」する危険は、ゼロではないとしても、ゼロにかぎりなく近づくはずです。
今から15年ほど前、2000年代後半から、一般に「バイトテロ」と呼ばれる事件が繰り返し発生し、社会問題となってきました。YouTube、Facebook、Twitter、Instagramなどに記事、写真、動画などをアップロードし、これが不特定多数の目に触れることで大きな騒ぎが惹き起こされたのです。(ただ、バイトテロの「第1号」と一般に考えられている事件は、「ニコニコ動画」への投稿が発端だったようです。)(後篇に続く)