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餌としての食事について

by 清水真木

 先週、近所のスーパーマーケットで、ぶどうの一種「シャインマスカット」を一房購入しました。価格は1450円でした。先月来、この果物をスーパーマーケットで見かけるたびに、買うかどうか迷い、そして、その都度見送ってきました。

 それでも、先週、私がこれを買うことにしたのは、値段がいくらか下がったからです。私の記憶に間違いがなければ、8月の上旬には、1700円近い値段がついていました。

 たしかに、これは、おいしい果物です。1450円の価値はあるのでしょう。しかし、シャインマスカットは、私にとっては必須の食品ではありません。他を措いてシャインマスカットのために1450円を支出する可能性は低いように思われます。

 ところで、日本の果物は、世界の平均とくらべ割高であると一般に考えられています。理由はいくつもあるようですが、一言で要約するなら、「果物が食生活全体に占める位置が外国とは異なるせいで、質のよいものが手間をかけて作られてきたからである」ということになるようです。

 たしかに、私自身の食生活において、果物は、重要な位置を占めていません。最近は、果物をいくらか食べるようになりましたが、子どものころは、一家揃って果物を食べる習慣がありませんでした。果物は「水菓子」と見なされ、適当なお菓子が他にないとき、あるいは、誰かからもらったときにのみ、食卓に上るものでした1 。たしかに、月に1回、菓子の代用品として家族数人で口にするものであるなら、1450円のシャインマスカットは決して割高ではないかも知れません。

 ところで、果物というのは、自然界にあるさまざまな果実の中で、「動物に食べてもらう」ことを目的として植物によって作り出されたものであると一般に考えられています。したがって、普通の野菜とは異なり、果物は、人体に害になるような毒素を持たないようです。最近は、果物を積極的に口にすることが健康によいという主張を見かけるようになりました。1日に200グラムの摂取を推奨する団体もあるようです。

 ただ、日本人が果物を積極的に口にするようになるためには、果物に対し「水菓子」の位置を与えてきた食生活の枠組をすべて更新することを避けられません。

 もともと、食事というのは、「生命と健康を維持するための餌」を体内に取り込む作業ではなく、本質的には、コミュニケーションの一種です。したがって、食事の内容は、それ自体としては、長期間にわたり行き当たりばったりに形作られたものであるのが普通です。日本人の食生活が果物を取り込むことなく形成されてきたのは、不幸な偶然以外の何ものでもありません。

 健康の維持を目標として食事を設計することは、食べ物を「健康を維持するための餌」に置き換えることを意味します。食事が食事であることはもはや必要ではないことになってしまうでしょう。健康を標的とする食生活の改善というものには生活の一部を決定的に変質させる危険があるように思われるのです。

  1. 「果物をありがたがって食べるのは田舎者」というような話が出たことがあるような記憶もあります。以前に書いた「栗ぜんざい」と同じです。

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