※この文章は、「車社会とは自動車を単位とする社会であることについて(その1)」の続きです。
「車社会」というのは、自家用車がないと生活が成り立たない社会を意味します。しかし、「生活が成り立たない」というのは、目的地まで移動することができないことを意味するばかりではありません。わが国でもっとも高度に発達した「車社会」である沖縄を歩いて何となくわかったことがあるとするなら、それは、車社会というのが、「自動車」を単位とする社会である点です。換言するなら、(自家用車がないと生活の用を足すことができないというのは、車社会の表層にすぎず、)車社会の本質は、人々の移動において人間ではなく自動車が優先される点、「人数」ではなく「台数」が基準となる点に求められなければならないように私には思われます。
誰もが自家用車を持ち、自家用車を運転して屋外を移動する社会が車社会であるなら、車社会というのは、「人間が消去された」社会であると言うことができます。
当然、このような社会では、観光施設ばかりではなく、商業施設もまた、客として相手にするのは「人間」ではなく、「自動車に乗っている人間」となります。郊外にある巨大なショッピングモールに徒歩でアクセスし、店に入るためには、広大な駐車場を横切らなければならないのが普通です。
昔、アメリカを旅したとき、ある大都市の郊外にあった美術館に行くことを思い立ち、路線バスに乗って最寄りの停留所で下車し、そのまま徒歩で美術館の敷地に入ろうとしたことがあります。ところが、門の近くで待機していたガードマンに止められ、「何をしに来た」「どこから来た」と尋ねられてIDを提示するよう求められたことがあります。
私がガードマンから尋問されているあいだ、私の横を自家用車が何台も走り抜けて敷地に入って行きましたから、徒歩によるアクセスは、それだけで「不審者」と見なされるのに十分な条件であったことになります。
なお、私がガードマンにパスポートと「入館が予約済みであることを示す書類」1 を見せると、ガードマンから、「建物まで距離があり、出入りは自動車限定になっているから、建物まで車で送る、帰るときには、建物から私に電話してもらいたい、そうしたら、車で迎えに行って門のところで降ろす」と言われました。(その後、車に乗せてもらって移動しました。所要時間は片道わずか2分くらいでしたが、たしかに、敷地内の道には歩道がありませんでした。)
しかし、車社会というのは、移動に自家用車を使わない人間が人間扱いされない社会なのでしょう。(実際、私が知るかぎりでは、有名な観光地を通過するような一部の特殊な路線を例外として、アメリカの路線バスでは、乗客の大半が黒人とヒスパニックです。)
自家用車に頼らないと生活が成り立たないような状態、あるいは、自家用車の日常的な使用にインセンティブを与えるような制度を放置すると、私たちの生活空間は、自動車を中心とするもの、自動車が通行できさえすればよいものとなり、生身の人間には耐えがたいような荒廃に陥ることになるように思われるのです。
- その美術館は、1日の入館者数を制限しており、予約が必須でした。 [↩]