Home やや知的なこと 動詞「存在する」について、あるいは、哲学を学ぶことの効用について

動詞「存在する」について、あるいは、哲学を学ぶことの効用について

by 清水真木

 私は、「存在する」という言葉を滅多に使いません。また、これは私の完全な想像になりますが、私ばかりではなく、哲学の専門の研究者なら誰でも、日常生活において、この動詞を使わないようつねに何となく心がけているはずです。というのも、存在は、哲学のもっとも重要な概念、あるいは、少なくとも、もっとも重要な概念の1つだからであり、紀元前6世紀に哲学が誕生して以来、現在まで、「『存在する』とはどういうことか」というのは、哲学の根本問題でありつつづけているからです。

 専門の研究者が「存在する」を用いるのは、「存在する」の意味が問題となるときだけであり、日常的な言語使用の場面では、「存在する」などという勿体ぶったサ変動詞を使うことはできるかぎり避け、「ある」「見つかる」「見出される」「認められる」など、同じ意味を持つごく普通の和語が用いられているのではないかと思います。少なくとも私は、言い換えを捜します。

 哲学の専門の研究者が使わないよう心がけているのは、「存在する」ばかりではありません。「意識」「認識」「解釈」「主観」「客観」「感覚」「理性」「世界観」「永遠」「自然」「道徳」、これらはすべて哲学のテクニカル・タームであり、普段の会話において、使わずに済むなら使いたくない言葉です。(もちろん、「哲学」という名詞もまた、それ自体として、哲学のテクニカル・タームです。)できることなら、私に聞こえるところでは使わないでもらいたいとも思っています。会話において、たとえば「意識が高い」「ゲームの世界観」などという言葉を耳にすると、私は、これらを「誤用」あるいは「意味不明」と即座に判断します。もちろん、相手が全体として言いたいことはわかりますから、会話を遮って意味を尋ねたり、言葉遣いを訂正したりするようなことはありませんが、それでも、靴の中に小石が入ったときのような不快感を覚えることは確かです。

 哲学を学ぶことに実際的な効用があるとするなら、言葉の意味や使用法に敏感になり、言葉遣いに慎重になることは、間違いなく効用の1つに数えられるものです。哲学は、言葉を適切に使う——「政治的に正しい」表現のことではありません——努力において、道標の役割を担います。(残念ながら、言語学にはこの役割はありません。)

 哲学の勉強を何年間も積み重ねるうちに、自分が語る言葉について、また、耳にしたり目にしたりする言葉についても、「この言葉の使い方はこれで大丈夫か」「これは最適な表現なのか」とつねに問い続ける習慣が自然に身につくに違いありません。

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