都心のオフィス街を歩いている男性の半分以上は、スーツあるいはこれに準じた衣類を身につけています。そして、これらの男性が身につけているスーツの、これもまた半分以上は、2ボタンのスーツ、つまり、ジャケットにボタンが2つあるタイプのスーツです。
2ボタンのスーツの場合、着席しているときはボタンを外し、立っているときには、上のボタンのみをとめる——場合によっては、両方ともとめない——スタイルが平均的な「マナー」として通用しています。「2ボタンのスーツでは、ボタンを2つともとめてはならない」というのは、広く知られた注意事項であるはずです。
ところが、2ボタンのスーツの男性を観察していると、その何パーセントかが、上下のボタンを両方ともとめていることに気づきます1 。スーツのジャケットの仕立ては、ボタンを2つともとめることを想定していません。下の方のボタンまでとめてしまうと、歩くたびにジャケットに皺がよるはずです2 。
それでも、たとえば就職活動中の大学生がボタンを2つともとめているのなら、「勉強不足」や「不注意」として見なすことができます。しかし、ある程度以上の年齢の男性がジャケットのボタンを両方ともとめて街を歩いているのを見かけると、「この人は、何年、いや、何十年ものあいだ、このスタイルで毎日のように人前に出て、しかも、誰からも何も指摘されてこなかったのだろうか?」という疑問が心に浮かびます。数日前には、おそらく70歳を超えた男性がボタンを2つともとめて歩いているのを見かけ、大いに驚きました。
大抵の場合、父親がスーツを着る職業に就いていたなら、スーツを着るときに注意すべきことは、父親のスーツ姿を見て何となくわかります。父親から直に指導されることも、あるいはあるかも知れません。また、私のように、スーツを身につけるようになったときにはすでに父が身近にいなかったとしても、(あるいは、父親がスーツを着る職業に就いていなかったとしても、)スーツを初めて手に入れるとき、その店において、最低限の注意は受けるはずです。大学に入学する直前、私が最初にスーツを新調したとき、店の主人から、2ボタンのときにはこう、3ボタンならこう、ポケットチーフはこう、色の組み合わせはこう、などと簡単な説明がありました3 。
長期的に見るなら、職場における服装は、少しずつカジュアルになりつつあります。ホワイトカラーの男性なら、スーツを所有していないことはないかも知れませんが、それでも、スーツを着る機会は少しずつ少なくなって行き、それとともに、今後、スーツの着用に関する「マナー」もまた、受け継がれなくなって行くのかも知れません。しかし、そのときには、——私には見当もつきませんが——スーツに替わる新しい標準的な衣装に関する新しい「マナー」が作られているに違いありません。
- この割合は、新型コロナウィルス感染症の流行以前よりも、むしろ増えているような気がします。 [↩]
- 日本ばかりではなく、アメリカやヨーロッパでも、下のボタンはとめないのがルールになっています。しかし、実際には、このルールに従わない男性が多いのか、”two button suit bottom unbuttoned”などのキーワードで検索すると、関連するページが大量にヒットします。
なお、アメリカの第35代の大統領であったケネディは、スーツのボタンを2つともとめることで知られていました。しかし、ケネディが身につけていたのは、ボタンを両方ともとめても形崩れを起こさないようボタンの位置をずらした特殊な仕立てのスーツのようであり、現在の日本で流通している標準的なスーツでこれを真似ることはできません。
また、初期の007シリーズの映画のいくつかのシーンで、ショーン・コネリーのスーツのボタンが2つともとめられているシーンがあるようですが、次の記事によれば、これはコネリーの「間違い」のようです。
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- 私の祖父は、スーツが好きで、新調するときには、生地、ボタン、裏地、襟の形、ポケットの形など、職人と相談しながら、すべて自分で決めていました。しかし、残念ながら、私は、着るものにあまり興味がなく、スーツを作るときにも、店からすすめられるものの中から選んでいます。 [↩]