人間が一生のうちになしうる体験の量には限度があります。したがって、何もかも体験した人など、この世にはいません。言い換えるなら、私たちは誰でも、何かを体験したことがありません。
ある事柄Xについて語る資格を持つのは、Xを体験した者だけであることを主張する人がいます。もちろん、このような人は、任意のXについて語る資格として体験を求めているわけではありません。
実際、私たちが普段から話題にする事柄の中には、誰にとっても体験不可能なものがあります。その代表が「死」です。形式的に考えるなら、何かを「語る」ことができる者は、語ることができるかぎりにおいて、まだ死を体験していませんし、死を体験した者には、みずからの体験について語ることができないのです。
むしろ、体験なるものの意義が強調されることがあるとするなら、それは、体験が、当の事柄に関する自分の主張の優位や正当性の根拠となる場合でしょう。「体験したことがないやつに本当のところがわかるわけがない」というわけです。
しかし、この「実体験至上主義」が承認されるためには、次の2つの仮定が受け容れられなくてはなりません。すなわち、(1)「体験したことがある事柄に関する私たちの評価は必ず妥当である」という仮定、および、(2)「『体験したことがないものについて語ることはできない』という主張は、すべての事柄に適用可能である」という仮定です。
私は、これらの仮定は両方とも偽であると考えています。また、後者が成り立たないことは、上に述べた「死」の例によって明らかですが、このような極端な例を挙げるまでもなく、実体験至上主義におのずから限界があることは明らかでしょう。