※この文章は、「大義への甘えについて(前篇)」の続きです。
辺野古における「新基地」の建設を本当にやめさせたいのなら、まず着手しなければならないのは、ゲート前で座り込みを続けることなどではなく、東京に出向いて国会議員に繰り返し陳情すること、マスメディアを糾合したり広告代理店を利用したりしてして世間の目を沖縄に向けさせること、あるいは、全国を回って沖縄の現状を訴えることでしょう。
日本は法治国家ですから、外交と安全保障をめぐる意思決定のプロセスに対し、現実的な対案を携えて制度的に介入しないかぎり、「新基地」の建設が止まるはずはないのです。基地のない沖縄の実現を本気で望むのなら、このような活動にリソースを優先的に割り当てるのが合理的であり生産的であることは、誰の目にも明らかです。
それにもかかわらず、キャンプシュワブのゲート前で抗議行動が続けられているとするなら、その目的はただ1つ、わかりやすい「画」を作り、これを不特定多数の人間の目にさらすためです。つまり、ゲート前で際限なく続けられる「抗議行動」は、一種のパフォーマンスであり演技なのです。(だから、辺野古を訪れる人々によって「画」として拡散される可能性があるときだけ、現地にいればよいことになります。)
私自身は、パフォーマンスとしての抗議行動がキャンプシュワブのゲート前で続けられるのが、それ自体として悪いことであるとは思いません。抗議活動がゲート前の空間を不法に占拠して続けられてきたという残念な事実、あるいは、その手法が必ずしも平和的ではないという残念な事実をさしあたり無視するなら、抗議行動は、それ自体としては国民に権利として認められているものだからです。
したがって、「ひろゆき」氏の挑発を無視し、そのツイートのみを素朴に解釈するなら、「パフォーマンスとしての仕上がりが雑で、国民の目を惹きつけるような『画』になっていない」「『立派な動機にもとづいてさえいれば、説明がおざなりでも許される』というのは単なる甘えである」「黙っていても賛成してくれる連中を超えて国民の幅広い層に訴えかけたいのなら、見かけの作り込みに十分な時間と手間をかけるべき」という至極当然のメッセージを読みとることができるはずです。というよりも、表面的に見るなら、これ以上の何かをツイートから読みとることは不可能です。
「ひろゆき」氏は、沖縄から基地をなくすべきであるという意見を攻撃している標的にしたのではありません。「大義」の上にあぐらをかき、理解と共感のために周囲が払う努力を当然と見なしているように——少なくとも「ひろゆき」氏には——見える尊大な態度をからかったのです。たしかに、何であれ、自分が行っていることに対し盲目的にyesと言ってくれない相手に対し、「大切なことに真剣に取り組んでいるのだから、ケチをつけるのはけしからん」などと言って憤慨するのは、単なる甘えであり、分別のある大人のすることではありません。
両者を区別して論じることができない人には、公共の言論空間においてこの問題について発言する資格はないと私は考えています。