「承認欲求」という言葉があります。この言葉に厳密な定義があるのかどうか、定義があるとするなら、それがどのようなものであるのか、私は知りません。
ただ、通俗的な言語使用の場面では、「承認欲求」とは、何らかの意味において価値ある存在として他人の注意を惹き、他人によって肯定的に評価されることへの欲求を意味すると考えて差し支えありません。もちろん、この場合の「他人」の数と範囲は、具体的に「承認」を求める場面に応じて変化します。
ところが、承認欲求が対象とする「承認」なるものは、他人が私に対して与えるものです。言い換えるなら、承認が与えられるかどうかは他人次第であり、私の意のままにはなりません。承認欲求とは、自分の意のままにならないものへの執着なのです。ストア主義によれば、自分のコントロールの外部にあるもの——つまり他人の心——に執着し、これを操作し支配しようとするのは愚か者の証拠に他なりません。この見解が妥当であるなら、承認欲求を心に抱く者は、典型的な愚か者であることになります。
承認欲求が満たされないせいで苦しい思いをしている人々にも、この程度のことはあらかじめわかっているはずです。それでも、承認欲求から自由になるのは容易ではありません。
承認欲求なるものが私の心において発生し、そして、これが満たされるときには、きっかけとして、私を原因とする出来事(E)が必要です。まず、Eがある範囲の他人の注意を惹き、続いて、Eの原因としての私が他人の視野に入り、最後に、Eが私対する好意的な反応を何らかの仕方で他人から引き出す1 ことにより、私の承認欲求が充足されます。(中篇に続く)
- あなたが何かすばらしいことを成し遂げ、この事実が不特定多数の他人の注意を惹くとき、多くの人は好意的な反応を示すはずです。しかし、この好意的な反応は、つねに心からのものであるとはかぎりません。あなたが成し遂げたすばらしいことによって嫉妬や劣等感を覚える人がいても、「ここでケチをつけて人間関係を壊したくない」「周囲に同調して嬉しそうな顔をしていた方が安全」などと判断し、一応の「承認」を与えたにすぎないかも知れないからです。 [↩]