※この文章は、「『承認欲求』から自由になるために最初にすべきことについて(前篇)」の続きです。
ここで注意を向けなければならないのは、出来事Eの性格です。本来なら、私は、私自身が価値あると信じられることのみを、他人の評価や反応とは関係なく粛々と遂行すべきでしょう。私が遂行することで決して後悔しないのは、私の意のままになる範囲——厳密には私の内面のみ——にある事柄だけだからです。形式的に考えるなら、承認欲求から自由になるためになすべきことは、他人の評価を無視することであり、これ以外の何ものでもありません。
けれども、現実には、私たちは誰でも他人と共存しています。自分自身を尊敬しない者は他人から決して尊敬されない1 、古代以来多くの哲学者たちが繰り返し強調してきたこの洞察にもかかわらず、私たちは、なすべきことを決めるとき、自己評価よりも他人が与える評価を優先的に参照してしまいます2 。他人の評価や反応を無視することは途方もなく困難なのです。
「他人の目」と無縁の生活が事実上不可能であることによるのでしょう、私たちは、自分の心の安定を維持するために誤った戦略を採用し、そのせいで、狭い袋小路に足を踏み入れがちです。そして、この隘路の行き止まりで私たちを待つのが、「承認欲求」という名の泥沼のような執着に他なりません。
承認欲求なるものを心の中に産み出し、その充足へと私たちを駆り立てることになる(破綻した)戦略は、次の2つの段階からなります。すなわち、まず、何かを遂行することにより、他人からの肯定的な評価を獲得し、次に、この肯定的な評価にもとづき、「他人から評価される私」を肯定的に評価する、この2段階の戦略によって獲得されることが約束されている満足感のようなものは、これまで誤って「自己肯定感」と呼ばれてきました。
この「自己肯定感」と誤って呼ばれる満足感は、決して心の安定を与えません。理由は2つあります。
(1)私にとって意義があるかどうかを措き、他人から肯定的に評価されることを主に期待して何かを遂行する場合、私は、主体性を失い、否応なく奴隷的になります。
何と言っても、私には他人の心を直接に操作することができません。他人の心は、私の目に、何が潜んでいるのか見当がつかない暗闇のようなものと映るようになります。それでも、私は、この暗闇に包まれ、恐怖と気がかりにさいなまれながら、「いったい次は何をすれば承認してもらえるのか」と問い続けることから逃れられません。(後篇に続く)
- つまり、自尊心(self-respect) は尊敬(respect) に先立つのであり、決してその逆ではないということです。 [↩]
- もちろん、他人の評価の方が公平である可能性はあります。しかし、他人の評価が公平でありうるのは、評価する者がみずからの評価に何らかの責任を負う場合だけです。 [↩]