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インテリアに成り下がった書物について

by 清水真木

 書物というものについて、私は、「読まれるためのものであり、飾られるためにあるのではない」という堅い信念を持っています。すべての書物は——「積ん読」の状態に置かれている書物を含め——いずれは読まれるために世に送り出されてきた点において同じだからです。たしかに、内容の点で無価値な書物というものが世の中にないわけではありません。それでも、無価値と判定されるのは、これが誰かによって読まれたからです。書物は、読まれることによって初めて書物になると言うことができます。

 しかし、世の中には、書物が「飾られる」ものとして評価される場面があります。私たちは、お洒落であることを売りものにする喫茶店や雑貨屋の店頭において、「洋書」がインテリアとして飾られているのを見ることが少なくありません。このような書物は,読まれるためではなく、まさに飾られるために購入され、そして、ある場所に置かれています。これらの書物の価値とは、サイズと装丁の価値であり、内部が白紙でも、いや、空洞であったとしても、価値に違いはないことになります。

 私が個人的に観察した範囲では、インテリアとなるのは、普通以下のサイズの書物の場合、基本的に第2次世界大戦までに主に英語圏で公刊された文学あるいは歴史関係のハードカバーが中心であり、写真集、画集、図録などの大型本については、これに対し、発行年が新しく、発色のよいものの方が好まれるようです。(哲学、自然科学、社会科学関係の書物は、表紙が「お洒落感」に乏しいのでしょう、インテリアとして利用されることは滅多にないような気がします。)

 しかし、内容とは関係なく、見かけのみにもとづいて取引され、そして、「お洒落」を演出するためにディスプレイされるというのは、書物にとっては、「奴隷」の身分に落とされるのと同じことであると私は考えています。

 書物というものは、書物であるかぎり、「誤読」を免れることはできません。けれども、誤読は、著者の意図の無視や取り違えを含むものであるとしても、書物の内容をメッセージとして受け取る点において、やはり「読む」ことに属しています。誤読は、書物の書物性を尊重する1つの流儀なのです。

 これに対し、書物をインテリアとして扱うことは、書物からその書物性を剥奪することを意味します。「奴隷」というのが人間性を剥奪された人間のあり方に与えられる名であるとするなら、インテリアに成り下がった書物、書物として位置を与えられるはずの文脈から暴力的に引き離されることにより書物性を剥奪され、ただ外側を眺められるだけのためにある場所に置かれた書物というのは、奴隷に落とされた書物以外の何ものでもないと私は考えています。

 お洒落を演出するためだけに喫茶店や雑貨屋の店頭に並べられた書物を目にするたびに、これらの書物に対する同情が私の心に否応なく浮かびます。たしかに、これらの書物は、後世に伝えられるべき名著ではないかも知れません。それでも、「読まれない」ことと引き換えに生きながらえさせられている姿は、その書物自身の望む姿からはかけ離れているように私には思われるのです。

 最近、お洒落なインテリアの小道具としての書物を販売する「書店」をネット上でいくつか見つけました。読まれない書物を売買するこれらの「書店」は、人間における「奴隷商」と同じようなものであり、書物と書物文化に対する冒涜であるという意味において、ありうべからざるものである。本を読み、また、本を書くことを仕事の一部とする者として、私はこのように考えています。

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