※この文章は、「高級品を持つ資格について(前篇)」の続きです。
とはいえ、機械式腕時計に代表される高級品というのは、ヨーロッパやアメリカでは、生活への影響を考慮することなく100万円程度の腕時計を気軽に購入することができるばかりではなく、世間に対しそれなりの品位や体面を維持することが必要であるような階級の人々のためのものです。見方をあらためるなら、100万円くらいの腕時計を前にして、「これを買ったら今後数ヶ月の生活費を切りつめなければならないのではないか」などという気がかりに囚われてしまうような人々は、高額な腕時計にはふさわしくないはずなのです。
実際、時刻を確認するための道具としては、高額な機械式腕時計よりも、より正確なクォーツ式の腕時計、あるいは、携帯電話やスマートウォッチなどの方が安価であり、かつ、実用的でしょう。機械式時計は、アクセサリーであり、ステータスシンボルなのです。
ところが、少なくとも日本では、機械式腕時計に代表される高級品は、ステータスシンボルの役割を担っていません。また、少なくとも日本に関するかぎり、ファッション誌やこれと同等の各種の媒体は、高級品というものが、それなりに限定された職業や階級のためのものであることを強調せず、反対に、これが万人のためのものであり、生活費を切りつめても購入するに値するものであるかのような錯覚を日本人に与えることを試みているように見えます。
以前に書いたように、私自身は、機械式の腕時計1個、この腕時計を分解修理に出しているあいだに使用するクォーツ式の腕時計1個、そして、試験監督で使用する鉄道時計1個を所有しています。これら3個の組み合わせは、みずからの現在の収入、職業、ライフスタイル、そして、何よりも、腕時計を身につけられる時間などを含む全体にもっともふさわしいと私は考えています。
高級品を身につける余裕も必要もない立場であるにもかかわらず、生活費を切りつめてまで名の通ったブランドにこだわるのは、遅くとも1980年代のバブル以来の日本人の悪い癖であり、バブルが崩壊し、経済的な環境が変化したにもかかわらず、日本人は、現在でもなお、この悪癖に囚われ続けているように見えます。特に、みずから使うために購入するのではなく、ただ収集するため、あるいは、投機のために高級品を購入することは、その行動が痛々しいばかりではなく、購入された当の高級品にとってもまたふさわしくないことであるように私には思われるのです。
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私は数ヶ月前、父から大学入学祝いとして20万円以上する時計を譲り受けました。たかだか大学生の自分がと最初はひどく気が引けて、それこそ飾ったままでいましたが、父に促され、日常的につけるようになりました。正直、タイマー機能もなく、数日つけないと止まってしまう機械時計はあまりに実用性に欠けるように思えます。しかし、長くつける中で気づいたのは、つけていると、自分がそれに値するような品位のある生き方をしたいと戒められるような気分になることです。そういう意味で、高級品は所有者の経済的な富裕さのシンボルであるだけでなく、所有者の上品にあろうとする精神的な高潔さのシンボルでもありえるのではないかと思います。しかし、自分もそれをコレクションしたり、無理をして買うのには反対です。それは、その行為自体がその人の強欲さや、高級品への敬意のなさを表すように思われるからです。