Home 世間話 いわゆる「表現の自由」の制限について(その2)

いわゆる「表現の自由」の制限について(その2)

by 清水真木

※この文章は、「いわゆる『表現の自由』の制限について(その1)」の続きです。

 「表現の自由」と対をなす責任が「公共の福祉を促進する」ことにかかわるものでなければならないことは、次の事実によって明らかです。表現の自由について誰かが何かを主張する場合、その誰かが——ときにはエクスプリシットに、ときにはインプリシットに——想定する「表現」とは、不特定多数の人々が目にする可能性がある文章や映像、あるいは、その創作や製作であるのが普通です。言い換えるなら、表現の自由をめぐる議論というのは、大抵の場合、「著作権」が保護されるような「作品」の公表の是非を端緒としていることになります。

 そもそも、文章を綴ったり、絵画、彫刻、音楽、映画などを製作したりする活動は、何かを形にすることをそれ自体として目的とするものではありません。このような表現は、1つの例外もなく、表現されたものを誰かに受け取ってもらうこと、そして、これを受け取った人々に何らかの影響を与えることを最終的な目的としています。(社会に対し直接に影響を与えることを意図した表現というものもあります。政治的なプロパガンダはその典型です。)誰かに何かを伝え、感動させたり、特定の行動へと誘うつもりがないのなら、私たちは、何も表現することなく、ただ沈黙しているはずだからです。私たちが何かを語り、何かを描き、何かを撮影し、何かを記すのは、言葉の広い意味において「世界を変える」ためなのです。

 とはいえ、表現が本質的に世界を変えるために差し出されるものであるかぎり、差し出されたものを受け取る側、つまり、社会の方には、社会にとっての効用という観点からこれを選別する権利があります。つまり、すべての表現に対し、社会を何らかの意味においてよりよいものにすることを求めます。したがって、表現されたものを世に送り出す者は、その表現がどれほど浮世離れしたものであるように見えるとしても、社会をより好ましいものにすること、つまり、公共の福祉とは無縁ではありえないのです。「表現の自由」が「公共の福祉を促進する責任」と一体をなす理由です。

 もちろん、公共の福祉を促進するものとこれを毀損するものの境界は、時代、地域、表現のタイプなどによって異なるばかりではなく、それぞれがとどまることなく変化してもいます。したがって、表現の自由の規制について、普遍妥当的な基準などというものは認められず、すべての規制はあくまでも暫定的なものにとどまると考えるのが自然です。

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