もちろん、作品の使用に当たり、著作物の使用料が著作者に支払われなければなりません。著作者が存命ではない場合、使用料は著作権継承者に支払われます。私は、自分自身の作品とともに、私が著作権継承者となっている全員(祖父、祖母、母、父)の作品に関してもまた、作品の使用料を受け取ります。(もっとも、入試の問題文の場合、使用料は1件につきせいぜい数千円であり、1万円を超えることはありません。)
とはいえ、学校や書肆の中には、「無償」での作品の使用を求めるところがごく稀にあります。たしかに、各学校や書肆から届く作品の使用許諾申請には、日本文藝家協会が設定した基準にもとづいて計算された使用量の提案の他に、「使用料を請求しない」という選択肢が用意されているのが普通です。それでも、「無償」一択での申請はさすがに珍しく、祖父が亡くなり、著作権の処理が私の仕事になった1988年以降、約35年間で合計5回くらいしか遭遇していません。許諾申請全体に占める割合は0.5パーセントを下回るはずです。
私自身は、無償での使用を求められた場合、原則として断ることにしています。特に、すでに存命していない人々の作品の使用については、無償での許諾申請は、いかなる事情があろうとも、すべて断ってきました。数年前、祖父の作品の一部が無断で使用されたことがありましたが、このときも、補償金の形で使用料を事後に請求しました。
私が作品の無償での使用をすべて断るのは、カネが欲しいからではありません。「プロの仕事についてタダということはありえない」というのが社会の常識だからです。プロに対する敬意を表すために、1円でも10円でも支払うのは、作品を使用する者の責務だと私は考えています。
むしろ、作品を無償で使用することを求め、そして、これに応じることは、当事者の双方にとり、いかなる意味でも好ましくありません。これは、以前に別の文章に書いたとおりです。一方において、私は、無償での使用許諾を相手に対する「貸し」に数えます。しかし、作品を使用する側がこれを「借り」として認識することはないでしょう。「無償」が有害であるのは、「無償」が産み出す「貸し」と「借り」の非対称性が避けることのできないものだからであり、このような非対称性を避けるためには、どれほど少額でも対価を求める以外の道はないのです。
もちろん、この問題については、上に述べたのとは異なる立場があり、自分の作品が無償で使用されることに同意する著作者がいることを、私は承知しています。少なくとも資本主義のもとでは、「プロの仕事についてタダということはありえない」という常識の適用を免れるものはないと私は考えていますが、この点に同意しない人もまた少なくないかも知れません。