Home やや知的なこと 問題解決を妨げるものとしての共感について(前篇)

問題解決を妨げるものとしての共感について(前篇)

by 清水真木

 以前、次のような文章を書きました。以下は、これに関連する話です。

 私は、「味方」を作るのが上手ではありません。

 少なくとも、自分自身に直接にかかわる個人的な問題について他人の協力を仰ぐのは苦手です。私の個人的な事情を打ち明けて助けを求めることにためらいを覚えるからです。誰かを援助したり支援したりすることを職業としている人々——たとえば医者——を前にする場合を今は措くなら、私は、自分にかかわることは原則として独りで片づける——そして、片づかなければ放置する——ことにしてきました。

 ただ、不思議なことに、他人を助けるのは、必ずしも苦痛になりません。もちろん、私自身の生活の質を決定的に損ねるほどの時間と労力を必要とする事柄、あるいは、私の心身にとって大きな負担になるような事柄は、このかぎりではありませんが。

 私の乏しい経験の範囲では、解決のための協力を他人から求められる問題の中には、同じことが自分の身に起こるとしても、時間と労力を費やすことはないと思われるようなものが少なくありません。それでも、他人の問題、あるいは、私が属する集団の問題の解決のためなら、進んで協力することがあります。ただ、このような場合でも、自分が誰かの「味方」になることはできても、みずから「味方」を増やすのは、相変わらず得意ではありません。

 ところで、それなりに広い範囲の他人に影響を与えるような問題について誰かと協力しながら解決を試みる経験の中で、気づいたことがあります。「味方」を作ることについて、私よりもさらに下手な人間が少なくないのです。

 時間と体力をそれなりに費やして周囲に働きかけ続けても、問題の解決に協力してくれたり、あるいは、少なくとも、解決されるべき問題があることを理解してくれたりする人々——つまり、もっとも広い意味での味方——の輪が広がらないことがあります。このようなとき、味方を作るのが下手な人々の多くは、味方を作る努力が不調に終わっていることの原因がみずからの「味方の作り方」の間違いにあることに気づかず、自分の味方になってくれない人々に腹を立てるのが普通です。

 味方作りに失敗する原因は1つではありませんが、原因のうち最大のものは、味方の作り方に関する勘違いです。すなわち、私が知るかぎり、味方の輪を広げることに失敗する人々は、大抵の場合、理解や協力を求めるにあたり、何を措いてもまず、相手から「共感」してもらうこと、そして、心情的に「連帯」してもらうことを期待するのです。

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