※この文章は、「問題解決を妨げるものとしての共感について」(前篇)および「問題解決を妨げるものとしての共感について」(中篇)の続きです。
当然、味方となってくれる人々に対し共感や連帯を闇雲に求めることは、目標の実現にとって障碍にしかなりません。
ところが、私の知るかぎりでは、味方を増やすことに失敗する人々の多くは、これまで述べてきた(A)(B)を区別せず、「共感してくれる人々」以外に「味方」を求めることができません。
私がある問題を切実に受け止めても、同じ問題が他人の注意をまったく惹かないことがあります。他人の関心や視点は多様であり、ある問題についての私の受け止め方は、多様な受け止め方の1つにすぎません。このような人々に問題を理解させ、協力してもらうためには、共感や連帯の努力を当然のように要求してはならないのですが、味方を作るのが下手な人々には、この点がわからないことが少なくないようです。
実際、たとえば、ゴールを客観的に示し、ゴールを実現することの意義を説明するよう求める人々、あるいは、所期の目標の実現に関し、さらに現実的な解決策を提案するだけで、味方作りが下手な人々の目からは「敵」として扱われてしまいます1 。
そして、目標の実現に手を貸してもかまわないが、必ずしも心情的に寄り添わない人々がその都度あらかじめ「敵」と見なされてしまうなら、味方作りが下手な人々にとっての「味方」とは、彼ら/彼女らに「共感」を抱き、問題解決の手法を含め、その主張を丸ごと受け容れ、場合によっては、彼ら/彼女らの手足となって働いてくれる集団に限られてしまいます。味方作りの努力は、丸ごと共感してくれそうな相手に働きかけるものとなり、このようにして形成された「味方」からなる集団が決して多数派になることはありません。もちろん、この小さな集団では、問題の現実的な解決よりも共感と連帯が優先されます。最終的には、問題解決の試みは、「結果はどうでもかまわない、信念と心中する」という現実離れした方向へと傾き、最終的に自滅することになるでしょう。(だから、このような集団では、路線対立が原因の「内ゲバ」や「分裂」が避けられません。)
私たちの周囲には、多数派を作らなければ解決しないような大小さまざまな問題が横たわっています。たしかに、問題の解決を当事者として試みる人々にとり、共感や心情的な連帯は、味方になってくれるかどうかわからない他人に働きかける面倒な手間を省略することを可能にしてくれます。しかし、当然のことながら、大切なのは、「寄り添ってもらうこと」ではなく、どのような形であれ「多数派を形成すること」です。どのように言い訳しようとも、また、どれほど力強い共感と連帯に支えられていても、多数派を味方につけないかぎり、問題は解決しませんし、戦いに勝利したことにもなりません。現実の社会において多数の人間に影響を与えるような問題を実際に解決し、あるいは、戦いに勝利してきたのは、「共感」と「連帯」の踏み絵を踏ませることで「敵」と「味方」を選り分ける人々ではなく、敵か味方か判別できなければとりあえず味方と見なし、敵を増やさないようなアジェンダを設定した人々なのです。
- たとえば、沖縄の「反基地」運動は、最終的なゴールが明確なプロジェクトの1つです。そして、この運動が具体的な成果に乏しいのは、「沖縄には基地が必要」と考える人々の説得に失敗しているからでもありますが、これ以上に、不特定多数の日本人に対し——合理的に働きかける代わりに——一切の疑問や提案を封じながら、「当事者に共感し寄り添う」ことばかりを強要してきたからであるように私には思われます。不特定多数の日本人に「共感」を強いることをやめないかぎり、「反基地」運動が意味のある成果を挙げることは決してありません。
左翼が主体となった運動が大体において失敗する原因もまた、これと同じです。 [↩]